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 いつも通り日が開いてしまってすいません。

 今日は、第四章:「暇と退屈の阻害論 贅沢とは何か?」を見ていきましょう。この章は本当にしっかり読まないと理解は難しいなあ、と思いました。

 
暇と退屈の倫理学暇と退屈の倫理学
(2011/10/18)
國分 功一郎

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 この章で、いよいよ、現代の消費社会と退屈の関係が論じられます。著者は現代の消費社会と退屈は切ってもきれない関係にあると言います。

 では、どのように退屈と消費社会は切っても切れないのか?

 ということを解説するのは次回にして、その前に、今日は著者のこの章での考えの構図と言うか、そういうものを見てみましょう。

 著者はこの章で「疎外論」について語ります。疎外というのは、私の語感では、「あるべきを失っている状態」だったのですが、著者は疎外のその捉え方を批判しています。

 そうすると、まず、「疎外」って何?ということをはっきり明確にしないといけない。

 でも、なんで疎外が出てくるの?というと、著者が消費社会の批判で引いているボードリヤールが「消費社会では消費による疎外が起こっている」と言っているから、です。

 著者が言っているのは、消費というのは、人間のあるべきモノとの関わり方ではない、と。モノというより、消費はコトとかかわるからこそ、疎外が起こる、という話に私には見えます。これは誤読かもしれませんが、そういうふうに読んじゃいます。

 マーケティングを多少勉強した人間にとって、「え、コトの消費ってだめ?」という反応が期待されます。スターバックスで有名になった経験経済的価値もある意味でコト消費のようなもんですし、いわゆる価値の概念化という最近の出来事も、コトの消費に見えますよね。

 というか、ボードリヤールの消費によって人間は疎外されているという主張は、そもそもマーケティングと言われる諸活動が人間を阻害しているといっていることにほぼ等しいので、あらゆる「消費促進活動は疎外を生んでいる」、とも言えてしまうわけです。

 マーケティングを勉強している人にはショックかな、と思いますが、たくましいマーケティング関係者は、そうさ、俺はゲッペルスさ、疎外する者さ、というような開き直りもあるかもしれませんね。

 さて、疎外を語っている哲学者をボードリヤールをきっかけとして見ていくんですが、ルソーから何人かの哲学者を見て、疎外を見ていきます。

 一人一人興味深いし、ポイントはいろいろとあるのですが、著者は「疎外」を人間が己の能力を発揮できていない、明らかに幸せでない状態のように使っているように思います。これも、私が読めていないかもしれませんが、そう読んでおきます。

 それでね、「その疎外を論じる時、人は、過去にあるべき理想があって、そこに帰ろうと言い出してしまうことが多い。それは誤りである」と著者は言っています。

 その倒錯を起こしている哲学者として批判されているのは、パッペンハイムとハンナ・アレントです。

 逆に誤読されているのは、ルソー、マルクスの疎外論である、と。

 内容は次回に回しますが、著者の主張は、「現代の暇と退屈の解決策は、過去にヒントがあるかもしれないが、過去にあった人間の姿に帰るのは間違いだ。未来に新たな暇と退屈の倫理を打ち立てるべきだ」ということだと思います。

 著者は常に未来志向でモノを語る。過去を理想化することには懐疑的です。

 400万年もの遊動生活を引き合いに出したのは、そこに理想を見出すためではない。定住を始めてしまった人間はそこに帰れるわけなどありません。

 また、ウェブレンの言う「有閑階級の理論」も身分格差を前提として生み出されたものですから、それが復活するのがいいと言っているわけではないです。あくまで、暇と退屈を生きるすべを知っていた人がいたかもしれない、というところで引いているわけです。

 著者が長い射程をもっている理由は、ハイデガーの退屈論に立ち向かうため、といったことを書きましたが、それは過去を理想化して立ち向かうのではないのです。

 著者は、あくまで過去はヒントであり、新たな倫理学の構築を目指しているわけです。

 著者は、これをはっきりさせるために疎外論と本来こういうあるべき状態があったはずという考えがセットになっていることを批判せずにいられないのだと思います。

 結局、過去に理想があるなどというのは、思想家として最低ではないか?と私は思います。新たな未来を作るために我々は思想している。決して、過去を美化してそこに閉じこもることを推奨する倫理学などあってはなりません。

 実際に、著者が肯定的に引いているルソーやマルクスは、過去に理想があったなどと言っているわけではなく、現状を分析し、疎外のポイントを見出し、現在をしっかりと捉え、未来にはこうじゃないほうがいいね、と言っただけだということがきれいに炙り出されてきます。

 で、この構図を踏まえた上で、ボードリヤールの消費社会批判と、映画、ファイトクラブについて見ていきたいのですが、それは次回のお楽しみです。

 が、1つ、ルソーの分析で自己愛と利己愛という非常に重要な概念が紹介されているので、それに触れておきたいと思います。

 ルソーの自然状態に関する議論の中で、自然状態と社会状態が対比されています。

 自然状態において発生するのが自己愛で、社会状態において発生するのが利己愛だと言っています。どういうことか?

 自然状態における自己愛は単に自己保存の衝動である、と。危険が迫れば逃げる。生きていたいから逃げる。それだけである、と。

 しかし、社会状態における利己愛は他人との比較の中で、関係の中で生じる。他人との比較の中で自分を他人よりも高い位置に置きたいというものだ、と。

 これね、「人が人を見下す」とか、「人が人を恨む」とか、そういう他人へのネガティブな感情が一気に説明できてしまう強力な枠組みです。社会生活を人間が営んでいるからこそ、その中で所有概念があるからこそ、その中で「権利」といった概念が万人にあるからこそ、成立します。

 「他人に何かを奪われること」の自然状態と社会状態の比較が非常にわかりやすいです。

 自然状態の中で他人に何かを奪われても、仕方ない、で済みます。木の実をもって移動していたらクマに出会ってそれを落とした。単に、逃げ出せばいい。それが人であり、自分より強くて、自分からそれを奪ったとて、逃げればそれでいい。

 クマとヒトに差はないですね。

 ただ、社会状態の中で他人に何かを奪われたら、仕方ない、では済みません。奪った他人にそんな権利はないはずであるから。こう考えると、権利という概念が社会によって生み出されたというのが非常に鮮やかにわかりますね。

 他人を見下したり、他人を恨んだりしたら、それは「ああ、私って社会状態を生きているんだなあ」と実感することにすると、ちょっとは気持ち的に楽でしょうか・・・。

 このルソーの分析は人間は置かれる状態によって大きく変わるもんだ、ということをすごくよく理解させてくれます。今後もおそらく人間は社会状態の中に置かれるわけですが、その中でどうすれば「暇と退屈」を幸せに生きていくことができるのか?いや、むしろどんな条件であっても「退屈」を強いてくる社会を変えていけるのか?を考えるきっかけになりますよね。

 「え?どう?」というところはまた次回にいたしましょう。

 それでは次回をお楽しみに。

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2011.12.02(20:07)|書籍コメント(1)トラックバック(0)TOP↑
 こんばんは。伊藤です。寒いです。

 外は寒そうです。改めて、暖房のありがたみを感じています。

 更新が遅くなってすいませんが、今日も第四章:暇と退屈の疎外論を見ていこうと思います。

 この章には、ある意味で著者の結論が書かれています。

 著者の結論は何か?

 結論は「現在の消費社会において、豊かに生きるためには、消費ではなく浪費が必要である。」です。ただ、これはちゃんと分析結果を踏まえて読まないと誤解が生じると思いますので、説明を試みます。

 この分析はボードリヤールに依拠しています。著者はボードリヤールの消費と浪費の違いを引いてきます。贅沢自体は非難されるものではなく、非難される場合、消費と浪費が混同されているから、です。

 で、まずは浪費を説明します。「浪費とは、必要を越えて物を受け取ること。」これはいいですよね。で、だからこそ、「浪費は満足をもたらす」のです。必要以上に物を受け取ったら満足、というのはよくわかると思います。

 それで、「消費には終わりがない」の説明に入ります。消費はモノを受け取るのではなく、概念を受け取るだけなので、満足がない。終わりがない、と。終わりがなく駆り立てられ続けるものだ、と。

 ここに、ちょっとよくわからない感覚とわかる感覚の両方がありますよね。

 確かに、ブームとかを見ると、消費には終わりがない、という感覚を感じます。ラーメンブームで、あの店にいったとか、あの店がどうだとか。その話題を作るためにラーメン食べているんじゃないの?と思うような人もいます。それはそれで1つの人生ですけど、なんか変な感じはします。

 そういう「顕示的な」部分が消費にはある、と。経済学で言う「消費」とボードリヤールの意味づけた消費はちょっと違いますので、こういう表現になってます。お許しください。

 人に言える消費と言えない消費ってあるよなあ、と私は思います。たとえば、エッチなお店に行ったとして、それを語りたいかというと、あんまり語りたくないのではないかな、と。

 それを語り合うコミュニティーも存在しえますけどね。ちょっと怖いかな・・・。Web上ではあの店はいいとか、あの店はダメだとか。

 そうすると、コミュニティー形成型のマーケティングをしている人たちは、人を消費に駆り立てていて、幸せにしない人たちだってことになります。それはそういう面もあることはあるなあ、ぐらいに私は思います。

 日本だと、どうしても芸事型のコミュニティーというものが存在しています。それは江戸時代とかでも存在している。茶道とかね。俳句とかね。

 そういう芸事を通じての人とのつながりとヒエラルキーってまさに教養に近い部分じゃないですか。そういうものを仕事にする、ビジネスにするというパッケージが最近よく出てはいます。駆り立てられるというよりは、奥深すぎて、というような方向のもので。これやってると退屈しないんじゃないかなあ、と思ったりするのです。

 著者はこの著作では書いていませんけど、ウェブレンから得られる暇と退屈への処方箋には、このあたりの話があるということは思っていると思います。

 だってね、納得するかは別にして、フォーディズムは成立しえない、なぜなら大量消費が終わってしまうから、というようなことを著者は書いています。

 で、大量消費の後に何が来るかと言うと、多品種少量生産、ニッチ型のビジネスですよね。

 そのニッチ型のビジネスにおいては、共通の話題、神話と言うか、ストーリーとなりうるものが、その道の分だけ生産されていって、それはそれで奥が深いもので、教養とも呼べるものにつながりうるんですよね・・・。そうすると、暇と退屈が部分部分では解消される流れが成立しうると思うんですよね。

 そりゃ、メインストリームの「マス」では、そうではないですよ。でもね、その駆り立てられ続ける「マス」の崩壊も少しずつ進むんじゃないかな、という見方もできるんですよね。

 私はすごーく嫌な言い方をすると、「無知、無責任との戦い」というものが自分のコンセプトだと思っています。その中で、殲滅すべきものは「駆り立てられるマス」なんですよね。はっはっは。

 だから、私としては、その「駆り立てられるマス」には崩壊してほしくてしょうがないのです。

 でも、今は実際に、「無知、無責任に迎合するシステム」で、企業は集金しようとしている面がある。それは認めざるを得ない。大学生の「あなたのやりたいことがきっとある」といった言説にもそういうことを感じます。だから、著者による「暇の退屈の問題提起」にすごく共感をしているわけです。

 でね、もはやそこまで極端にはならないだろうと思うのですが、著者はこの消費社会における終わりなき消費に駆り立てられる人々を映画「ファイトクラブ」を例に語っています。

 実際に、ファイトクラブ、見てみてください。著者の分析の延長にある消費社会の狂気と、その枠内での反発がどのような末路をたどるのか、というお話です。

 でね、もっと言うとしたら、消費社会の枠内での解決はだめじゃないか?という論点も提示しえます。が、私のこれまで書いていることを見れば明らかですが、中からでも十分変えていけるんじゃないかな、と。著者は解決策はきっと別の著作でお書きになるんだと思いますけどね。

 それでね、著者は正しくマルクスを読めば、労働者があまりに労働時間がすさまじい状況で暮らしているのが問題だと言っています。そして、その上、終わりなき消費によって駆り立てられ続けるのならば、救いがないではないか、と。

 でもね、労働時間はまあ、マルクスが悲惨だと思った時代よりはマシで。

 その中での余暇産業に時間を狙われ、終わりなき消費の中で、自分を阻害し続ける人ばかりならば救いはないけれど、みんな、暇の問題には少し気づき始めている。

 で、じゃあ、暇な時に消費するんじゃなくて、浪費しろ!が結論なんですが、私はコミュニティー型のビジネスの中に著者の言う「浪費」もあるんじゃないかなあ、とちょっと楽観的です。もしくはちょっと唐突ですが、アカデミーの中に「浪費」があると思っています。このへんはまた別の機会に語りましょう。

 今日はこのあたりにしておきます。

 ちょっと、人間の限界に挑戦する感じで忙しいのですが、まあ、しょうがないです。常に限界に挑戦してこそ、人間だ!ということで。それでは次回をお楽しみに。
2011.12.20(09:59)|書籍コメント(0)トラックバック(0)TOP↑
 こんにちは。伊藤です。

 例によって日が開いてすいません。

 で、ようやく暇と退屈の倫理学の7回目。今日は第5章:暇と退屈の哲学について見ていきましょう。引っ張り続けましたが、ハイデガーがようやく登場します。

 ハイデガーの講義録は大学の図書館にあったので、ほとんど読みました。正直、ようわからんかったのですが、私の感覚的理解においては、論理的に順をおって説明しようとすると、根本的には循環的説明に陥るということだけはよくわかりました・・・。

 「世界解釈はどこかしらのとっかかり、起点を持たないと、始まらない。」というお話ですね。ある意味で、これは思考の根本的な部分でもあります。

 で、この章で著者はハイデガーの退屈論を紹介します。第一形式から第三形式まで。

 でね、ハイデガーの退屈論は深い。なぜ深いかというと、ハイデガーは退屈こそが哲学の源泉である、というようなことを言っているのです。哲学者が「哲学とは○○」と言った時の○○にあてはまるものは、その人の哲学そのものであったりします。ハイデガーの哲学、形而上学とは何か?の答えが、退屈であるならば、その退屈論はハイデガーの思想そのものということにもなりますよね。

 とはいえ、「存在と時間」では、不安こそ哲学と言っているような気がするのですが、転向したようです・・・。まあ、彼ぐらい偉大だと、それもよしと。パトナムほどは転向してませんからね。

 哲学とは「気分」に住みつくものであり、その気分は「不安」じゃなくて「退屈」である。だから人は哲学する、と。

 では退屈とは何か?について、ハイデガーの退屈の第一形式から第三形式をもってきます。

 第一形式:何かによって退屈させられている

 第二形式:何かに際して退屈している

 第三形式:なんとなく退屈だ

 この3つがハイデガーの退屈の3つの形式です。ハイデガーは退屈を3つに分類しているわけです。MECE感がある分け方ですね。

 自分と環境があって。外部環境に退屈させられる場合と、なんらかの行為に際して退屈している場合と、存在していること自体が退屈な場合と。

 第一形式から第三形式まで、退屈はどんどん深くなっています。ハイデガーの例えは本を読んでもらえばわかりますので、私なりに例えてみます。

 第一形式は、めんどくさい人とかといっしょにいなくてはならないような状況。正直、うざい。こいつといると退屈だ、という感じの退屈です。解決策は簡単。そいつと一緒にいなければいい。

 第二形式は、何かしら楽しげな人といるけど、何か退屈を感じる。別にうざい人がいるわけでもない。それなりに楽しい。でもなんか物足りない。なんでだろう?ディズニーランドに行ったり、ディズニーシーに行ったり。それなりに楽しいけど、なーんか違う感じでしょう。

 この第一形式と第二形式を深く見てみます。

 そもそも誰かに退屈させられるのならば、そいつから離れればいいのだけど、そもそも誰かに何かに退屈させられる私って何?という問いはありえると思います。誰といようと退屈ではない人生って素晴らしいんじゃない?という話。

 何かに際して退屈しているというのも、楽しい誰かと、楽しい何かと一緒にいても退屈な私の人生って何?という問いがありえます。もっと根本的な何かがあるような気がする。

 で、根源は何かというと、第三形式です。「なんとなく退屈だ」ですね。

 これは、ある意味で最強の退屈です。根本的に解消しようがないのではないか、と。

 これまでの著者の議論とあわせてみてみると、より鮮明です。第二形式は、余暇産業に暇を狙われて、消費を強いられる労働者という話とあわせるとよくわかる。消費は満足をもたらさない。終わりがなく、自分自身を疎外するだけである、と。

 では、第三形式「なんとなく退屈だ」をなんとかすることができるならば、人は幸せである、ということになります。

 が、この退屈に至るハイデガーの問いの深め方も、示唆深いので、今日はそちらを見てみたい。

 著者が引用しているハイデガーの問いを引用してみます。

 私たちはいま自分たちの役割を探している。いや、というよりも、私たちはいま自分たちに何か役割を与えざるを得ない。

 しかしそれはいったいどういうことだろう?私たちは自分たちで自分たちにわざわざ役割を与えなければならないほど軽い存在になってしまったのだろうか?もし私たち自身が自分たちにとって重要な存在であるのなら、わざわざ自分たちの役割を探し当てなくてはならないということにはならないだろうから。

 どうしてそんなことになってしまったのか?なぜ私たちは自分たちの意味や可能性を見いだせないのか?これはまるであらゆる物が私たちに無関心になって、大きなアクビをふきかけているかのようではないか。

 なんにせよ、わたしたちは自分たちのために1つの役割を探している。「これこそが私のなすべきことだ」と言える何かを探している。

 言い換えれば、私たちは自分たちを自分たちにとって、ふたたび興味あるものにしようとしている。自分たちが自分たちにもっと関心をもているようになろうとしている。

 だが、ここには何かおかしなことがありはしないか?なぜそんなことをしなければならないのだろう?

 もしかしたら、私たち自身がいま、自分たちにとって、退屈になってしまっているのではないか?だからなんとかして自分たちを自分たちにとって興味あるものにしようとしているのではないか?

 しかし、人間が自分自身にとって退屈になってしまっているなどということがありえるのだろうか?なぜそんなことになってしまったのだろうか?

 引用終わり。噛みしめたいぐらいの名文ですね。

 これ、「何かしら人には役割があるんだ、それは尊いものなんだ!」の全否定ですよね。そんなことしなくても人には価値があるのでは?というハイデガーの問いかけです。ニートの開き直りにも通じます・・・。

 事前に、社会状態と自然状態の比較をやっているので、役割というのが社会状態から発生しているということも明白です。自然状態では役割なんてないのですから。

 この問いへのハイデガーの答えが、「自分自身にとって自分自身が退屈になってしまっているから」なんですね。

 でもまあ、そうすると、哲学するしかなくなるはずなんですけどね・・・。多少、哲学ブームになっているようにも思いますけど、現代の「無知化」ともいうべき現象はどう説明しましょうか・・・。

 で、役割を強いるような労働賛美社会を排除しつつ、そもそも「人間」が退屈を克服するには?というのを次の章で見ていく構成になっています。

 私が感じることとしては、本当に新しい倫理の構築が求められているなあ、ということです。

 過去には参考になることはあっても、答えはない。新たに作らねばならない。ニートなんて、出現したのは最近のことですからね。ニートからワークホリックまで、リア充からネカマまでカバーしうるような「暇と退屈の倫理学」を構築していくことが今、求められているように思います。

 でなければ、不毛に死んでいく、不毛に不幸を感じる人々がすごく増えてくるんじゃないかなあ、と思いまして。

 ただ、そんな悩みも贅沢なのかもしれません。今後、経済の混乱はどう考えてもあるでしょうからね・・・。インフレになったら、給与は上がららんけど物価が高騰する状況になるでしょうからね。

 給与は経済成長がないと上がらんですよ。そして、代替労働力がある以上、下方へ下方へと均衡点が移動していきますよ・・・。インフレになれば給与が上がるとブラジルを見て言っている人は大丈夫でしょうかね・・・。

 と、話がそれ始めたのでこのあたりで。それでは次回をお楽しみに。


2011.12.30(09:55)|書籍コメント(0)トラックバック(0)TOP↑
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