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 私は最近、このブログやTwitterでは、「逃げ」を糾弾し続けています。はっきりと断じますが、コーチングなどは「逃げ」の典型です。

 リーダーとか、人に方向性を示すような役割というものから逃げる人って多いですし、社会がそういう人を生み出すことからも逃げているように感じるわけです。私は「コーチング」もそういったことの「徒花」だと思っています。

 日本の大手企業は一旦導入したコーチングをやめようとし始めていますからね。

 これまで、特に「傾聴技法」を中心として逃げだと言ってきましたが、今日はコーチングで言う「モデリング」も逃げですよ、ということをつぶやいた内容を解説します。


①「偉大とは方向を示すことなり」はニーチェだが、人に方向を指し示すだけの気概がない大人が多すぎて、かつそれを受け取ることの意味もわからん子供が多すぎて。

②自ら人の範とならんという気概がないのならば、人の前に立つなよ。それを「相手がうざがるかもしれない」と卑屈さを持つのならば、お前の人生はなんなのだ?

③人は人に恋焦がれ、その人を目指す。教育においてそれは「薫陶」であり、古においては「聖賢の道」である。急に格が落ちるが、NLPではモデリング。有名人を真似てみよう、と。しかし、モデリングは悲しい。自らの器を大きくする気概のなさの現れ。

④人の前に立つ人間が自らの器を常に問うことをせずにどうする?自らの器を問うことを放棄した大人ばかりの社会がかっこいいのだろうか?「有名人をモデリングしましょう!」というやつとパートナーになれるか?俺はなれんよ。

⑤背中で語れない、家族の方向を示せない父親に子供が憧れるか?大人になった時、尊敬するのは父ですと言ってもらえないのは悲しくないのか?子供たちは誰の背中を追うべきか?すぐにわかってしまう。しかし、そういう背中を示す人があまりに少ない。

⑥子供は追うべき背中を求めている。いつか自分がそれを越えるために。自分の道をみつけるために。そこから姑息に巧みに逃げる大人が多くなった社会に希望が本当にあるのだろうか?

⑦自らの器を問うて欲しい。学び続けて、自らの背中に責任を持ってほしい。認知主義的には「内的表象」。これを広げる努力をするということ。そのためには自らの価値観を常に更新しつづける、変わり続ける、成長し続ける。そういう道を選んで欲しい。


 解説していきます。人に方向を示すのは「大きなお世話だ」と思うかもしれませんが、自分の方向なんて定まるものではなく、自分の何かが見つかるまでは、どこかの誰かが示した方向の中でやっていくものです。

 これに自覚的であればまだましですが、誰かに仕掛けられて方向性が決まっているものをさも自分で決めていると思うほうが危ないかなあ、と。

 最近は、教育の領域でも、自らが範を示す気概がない人が増えているように感じます。範を示す気概とは、自分が聖人君子だと主張することではなく、常に成長を求め、その姿勢を示すスタンスだと思います。しょせん「人」ですから、聖人君子であるわけがない。

 人前に立ちたいと思いながら、範を示す責任から逃れたいがために、コーチングなどという理屈を持ってくるのは、相当に卑劣な「逃げ」ですよね。そんなやつに教わりたいの?と問いたい。

 教育では、自らの師匠に抱く思いを「薫陶」と言ったりしますね。師匠が自らを研鑽する姿勢にこそ、弟子は惹かれるものです。中国古典だと聖賢の道となってしまいますけどね。繰り返しますが、自らが完璧だと思い込むことではなく、自らを研鑽し続ける覚悟で人に背中を示すスタンスのことです。

 ここからうまいこと逃げて、技術論だけを示しているのが「モデリング」手法です。もともとNLPではそういうスタンスではなかったと思いますが、コーチングと結びつくことで、見事な逃げの形が出来上がりました。これに喜んで手を染める人のなんと多いことか、と。

 誰でも子供ができれば父親になります。教育の最も大きな場は学校ではなく、家庭です。子供に責任を持つのは親です。自分の姿勢で何も示さず、子供と場を共有する覚悟をもたない親ってなんなのでしょう?いるのか知りませんが、なんと格好悪いことでしょうか?

 小学生の相手をするとわかりますが、彼らは追うべき背中を求めています。大人が子供に正面から向き合わずに、かわしてどうするのでしょうか?そんなかっこ悪い人々で構成される社会、そんな無責任な人間で満ちた社会、そんな道を示すことから逃げ出した人々の社会がよいのでしょうか?

 「人前に立ちたい!」と思うのはけっこう。そうならば、それなりの気概と責任感を持ち、学び続ければいい。変な技術に頼り、これなら大丈夫だよね、と自分を安心させていることがどういう意味なのか考えてみましょう。きっと恥ずかしくて恥ずかしくてしょうがなくなると思いますよ。

 誰でも、子供を持つ可能性はあるわけだから、その時に背中で語る、自分の経験を伝える、自分の姿勢を示すのは、自然で必然なことで、逃げこんだ技術でなんとかするべきものではないと思いませんか?



 

2012.06.12(14:05)|マネジメントコメント(0)トラックバック(0)TOP↑
 こんばんは。伊藤です。

 今日の夜ご飯は京樽のタイムセールです。独り身の悲しさを感じますが、美味しいですよ。

 たまにこのブログのアクセス解析を見て、キーワードを見るとビジネスシステムという単語が多かったりします。ああ、ビジネスシステムって言われるとなんだかわからなくて引いているのね、と。

 ビジネスシステムというのは、業務プロセスと同義です。別の言葉で言えばバリューチェーンとも言います。一応、それぞれの言い方にはそれぞれの主張がこもっています。

 ビジネスシステムという言い方は7Sというフレームワークの中での言い方です。ハードの3Sの1つなので、変更可能だよ、という感覚と、ちゃんとソフトの4Sと整合性つけてね、というメッセージが入っています。

 で、今日、取り上げるバリューチェーンはマイケルポーター教授が主張した概念です。学生に「バリューチェーンって何?」と聞いたら、「価値の連鎖です」と言うので、「その意味は?」と聞くと、「わかりません」だったりして、悲しくなります。

 このバリューチェーンという考え方は、付加価値がプロセスごとに積み重なっているよ、というお話です。プロセスごとにしっかり価値があるよ、ということです。顧客に提供する価値を、少しずつ分業して生産しているよ、ということなんです。

 プロセスごとにしっかり価値がある。たとえば、営業を知らないと現場を知らないとか、管理業務ばかりやっていると現場を知らないとか、昔は言われたもんです。でもね、それぞれがそれぞれの役割で価値があるとすると、全ては現場とも言えます。

 「事件は会議室で起こっているんじゃない!現場で起こっているんだ!」という有名なセリフがありますね。一世を風靡しました。でも、「お前は捜査方針がなくて捜査できるとでもいうのか?」という突っ込みがあります。

 機能をしっかり分解してみると、それぞれのプロセスに顧客にとって必須の価値を生産しているわけです。ない場合もたまにありますけどね・・・。「ない」と分析されると、プロセスがおとりつぶしになったりしますが、それは今回は置いておきましょう。

 それでね、フレームワーク、用語というのは、それぞれに出来た時の考え方があります。

 そういう考え方を知ることが、「考える」ことの端緒になります。自分のオリジナルな考えがいきなり生じることなどありません。まずは他人の考えを知り、それを蓄積するプロセスがあります。そこがあるから、「考える行為」が自分の中で規定される面があるわけです。

 フレームワークには、いくつかの要素がある場合が多いですね。それぞれの中身はブランクにして、それぞれの関係を問題にしている。

 価格とか、需要とか、そういう言葉の定義を直接求めようとすると意外と難しいものです。でもね、その直接的定義をあきらめて、それぞれの要素の関係ならある程度簡単にわかったりするものですよね。

 需要と供給の関係は、需要供給曲線に映し出されます。

 バリューチェーンにおいては、1つ1つのプロセスがどういう経緯を持つとか、元々どうだったか?ということは問題にせずに、「顧客からみた価値の一連の生産要素」として見るわけです。そうすると複雑な要素は捨てられて、つながりがよく見えてくる面がありますよね。

 4Pだって、マーケティングとは何か?を問題にしていると日が暮れるますよね。この商品が売れなければ会社がつぶれる!という時に「マーケティングとは何か?」を議論していたら、阿呆としか言いようがない。だから当該商品における4つのPの関係を記述すればいいだけの形になっているわけです。

 ただ、人は楽をしたがるもので、自分で考えるとエネルギーを使うので、結果だけもってこようとするものです。それでやった気になりたがる。

 しかし、それでは今の日本のビジネス環境だと厳しい。成熟してしまって、人口は減少フェーズに入ってしまって、政府は無駄な公共事業ばかりやっている。でも、一度公共事業の権益に組み込まれると抜け出せない・・・。

 このままだと全員で沈んでいきます。それはとても悲しい。今一度、自分で考える、考え抜いてなんとかする方向に向かってほしいと思っています。

 それで、宣伝です。「思考に関する勉強会」を6/30から始めます。自分の頭で考えるということを知りたい方。ぜひ、ご参加ください。詳細はこちらです。http://www.taii.jp/benkyoukai_landingpage.html

2012.06.14(20:22)|ビジネスシステムコメント(0)トラックバック(0)TOP↑
さて、今日は久々に抽象的な話をします。
抽象的な話をわかりにくく書きます。ごめんなさい。

私は、認知と思考はとても似ていると思います。
目の前に世界が広がっていることと、思考はほぼ同義です。

人は、認知したことをベースに、認知している空間とは別の情報空間を作れます。
レモンを思い浮かべてくださいと言われたら、目をあけたままレモンが思い浮かぶでしょう。

目の前に広がる世界と、レモンを思い浮かべている空間は別個です。
ただ、目の前に広がる世界は確かで、レモンを思い浮かべている空間は確かでない、
と思うのはおかしいです。

人は生のまま世界を経験していません。
もしも、生のまま経験しているなら、見間違いなんておこりようもありません。
結局、解釈で物事を見ています。

認知したらその時点で思考だと言ってもいいぐらいです。

だからこそ、メディアはメッセージであり、怖いのだと思います。
自分の認知している空間で、自分が思考を操作しているわけでもないのに、
次から次へと意味あるメッセージが流れる。

それは思考を操作されていることとほぼ同義です。

その思考には、必ずしも言語はいりません。映像の結びつきでも思考です。
自分の意志で操作すれば思考です。

しまったドアが開くことを想像するのも思考です。しまった窓が開くことを想像するのも思考です。

意味不明な思考も可能です。レモンが突如犬に変わったり。レモンがわんわん吠えても、それを
自分が操作して考えているなら、それはそれでいいのです。

ただ、他人に伝わる、伝わらないで言うと、独りよがりな意味不明な思考は伝わらない。
伝わる型、伝わりやすいプロトコルのようなものが、なぜかある。

なぜか人間はつたわりやすい型を共有している。それが論理と言えるでしょう。
これが生得的か否かでウィトゲンシュタインは悩んだと思います。論考では生得的だと思ったようですけどね。

で、論理の時点でも、言語はなくてもいい。論理の型にイメージ・映像がはまればいい。
四コマ漫画でも論理は存在している。文字のない四コマ漫画だってありえますね。

ただ、しゃべって伝えるには言葉がいります。
ここで、もう少しいうと、共有している経験みたいなものが確固としてあると、
論理の型を厳密に適応しなくても、伝わることは伝わります。ツーカーの関係みたいなもんです。

でもね、初めてであった外人同士が意思を伝えあおうとしたら、厳密に正しい構文みたいなものが
必要ですよね。

前者は意味論、後者は構文論。ともに論理学の分野ではありますが・・・。

コンサルティング会社のロジカルシンキングはほとんど構文論で出来ています。
広告代理店のこれわかるよね、的な提案はほとんど意味論で出来ていると思いますけどね。

書いているうちに何の話を書いているのか、わからなくなってきましたが、
こういうような知見って、あんまり世に出ていませんよね。私はいつも繰り返し言っていますけど。

というようなところで、今日はやめておきます。
それでは次回をお楽しみに。

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2012.06.16(15:56)|シンキングメソッドコメント(0)トラックバック(0)TOP↑
 今日は、不快を感じたとしても努力していかないと制限時間がなくなるよ、というお話。制限時間があることを自覚することが充実した時間を作り出すよ、というお話です。

 現有の情報量では、できないことってあります。やまほどね。なぜできないか?情報が足りないから。どうやればいいかわからんからです。やりたくてやり方がわかってりゃ、やるでしょ。

 で、その情報量を増やす過程において、不快感は必ず出てきます。これまでの情報量の空間のほうが心地よいわけです。人は変わりたくない。その変わらないままで得られる情報量が増えるかというと、残念ながら増えない。

 情報量を増やすためには、不快でもふんばっていく努力が大事ってことです。その不快に負けて結局元のままで生きていきたいというお子ちゃまは勝手にしてくれ、とは思っております。そのまま人生終わるから。

 つぶやいた内容を書くと、

①何かしらやってみないと、自分の世界は広がらないよ。試行錯誤が重要。ただ、何も考えずにやってみても、改善するポイントなんてほとんど見えてこない。ただやっているだけの状態になる。

②快も不快も引き受けないとね。快だけを感じようとするとだんだん不感症になっていくよ・・・。

③心が大きく揺れるのが問題なんじゃないよ。それを不適切な形で他者に表現しまくってしまうのが問題なの。感じることが悪いんじゃない。

④努力せずになんとかしようとしても、どうにもならない。が、努力をしないでなんとかなるように必死に考えているのが既に努力だろ・・・。努力せずに何とかなればいいな、と思いつつ、ただ待っていると人生の制限時間がやってくる。まあ、それはそれで人生だけどね。

⑤今を充実させるには、終わりの時間を自覚すること。今日が最後の日であってもいいように生きること。最後の日だと思って目の前の世界を見てみればいい。きっと、全く違って見えてくる。全く違った意味合いを帯びてくる。

⑥今日が最後だと言われても、俺は生きたいけどね。あがきたい。最後の最後まで。この世界の奇跡を全身で感じたい。死のフレームが発動しているからこそ、そう思うのだろうけど。

⑦制限時間を自覚するのは、近しい人の死に直面した時でしょ。近しい人の死を体験しにくい時代かもしれないけどね。でも、みんないつかは過去に流されていくのよ。終わらない今が終わるのよ。

 解説していきます。何かしらやってみるのは大事です。現在の自分の世界を揺さぶるために。たいていの人は何もしません。やってみることを恐れて、それを正当化する理屈ばかりをこねていきます。まあ、それはそれで人生です。

 でね、うまく行ったときの気持ちよさというのは、ずっとは続かない。誰でも何かしら気持ちよかった経験はあるでしょう。でも、それだけを求めていても、そうはならずに、快と不快は繰り返すものです。

 ただ、意外と不快を感じた時の人間と言うのは、そういうものを原因として不適切な行動をとってしまうものです。不快を感じて、周りに当たり散らす人もいます。

 この時の問題としては、不適切な形での表現が問題であって、別に不快を感じてしまうことが問題ではないです。むしろ、こういう不快さを楽しめるようになるぐらいになってほしいもんですが、なかなかそうはならないですね。慣れの問題もあるかと思います。

 ただ、ほとんどの人は努力しない。そして、人生の制限時間を迎える。それはそれで人生ですが、それで面白い?と聞きたくなります。ふんばって無理する時間は必要よ。そして、楽しいよ。よっぽどの天賦の才かよっぽどの強運がない普通の人の場合は特にね・・・。

 ただ、死ぬかもしれん、と思うと、だいぶ変わるよ。今日が人生最後の日だとしたら、と思いながら生きてみると世界が全然違って見えてくる。情報量が変わってくる。今までどれだけ自分が自分の能力を眠らせてきたか気づく。普段歩いている道でも、もう見ないかもしれないと思うと、今まで気づかなかったいろいろなものが見えてくる。

 生きるということを中心に世界を見ると、五感が研ぎ澄まされるのを感じると思います。今までどれだけ自分の感覚を眠らせてきたんだろうと思うぐらいに。

 でも、こういう感覚にはなかなか入らない。みんな長寿になってきて、おじいちゃん、おばあちゃんも長生きで近親者の死に直面する経験も減ってきているし。私はたまたま近親者の死に子供のころから何度か直面したけれど。

 世界は奇跡に満ちているよ。自分だと思いこんでいる自分が矮小すぎるぐらいに。実は自分だと思い込んでいたそんなものは自分ではないんだけれど。

 一歩を踏み出してごらん、と言いたい。過去に囚われた人生を送るんじゃなくて。過去に安住し続ける人生を送るんじゃなくて、これまでと違う「いま、ここ」を作り出すためには、不快を受け入れるふんばり、とにかくなんでもやってみるという努力が大事だよ。

 年を取るとどんどん変われなくなる。若い時に変わることを成功体験にできるか?で人生の彩りは全然違ってくるはずだよ・・・。
 


 


2012.06.18(18:37)|シンキングメソッドコメント(0)トラックバック(0)TOP↑
 先日、大学に向かう受験勉強がおかしくなっているというような話を書いたら、小学生の子供が行っている塾がまともだとわかって的なことを言っている人がいて、少しびびりました。

 中高生以降の学習と、小学生の学習は明確に違いますからね・・・。これは発達段階の問題です。小学生は標準的には100マス計算やら、九九の計算やら、覚えるところから始めてOKで、変に概念的なことを教えても、ただの自己満足に終わります・・・。というようなことをTwitterでつぶやきました。


①小学生に概念を教えるなんて自己満足だろ・・・。ピアジェの実験からもわかる話だが。なぜか中高生、大学生がそこから置いていかれる・・・。

②具体的操作、形式的操作の時期に経るべき発達を経過していない子供に、概念から教えるなんて、何を考えているのやら・・・。

③「問題が解ける=わかる」は教え方の妙な発達によって、成立しなくなって。中高生は問題が解けてもわかっていないという事態に陥ってしまう。小学生はそういうプレッシャーから逃れているからか、発達段階を無視した大人の自己満足の犠牲になる・・・。

④そして、大学生になると、前提概念をすっとばし、数式の意味やら、具体的な問題を扱うので、やってる感覚はあっても、その学問が何をどういう手法で探究しているのかもわからずに卒業する・・・。そして、使えない社会人が出来上がる。

⑤この負の連鎖を断ち切るために、大学生に遊びを通じて思考を学んでもらったりする活動をしているわけで・・・。「子供時代からやり直せってことですね!」と学生に指摘され、「確かにそうだな、とほほほほほ」

 子供のころは、まずは世界をくまなく観察させて、言語で物事をラべリングして。九九を覚えて。それを使って計算させて。そこからスタートでいいんです。当然、発達には個人差がありますから、発達が遅い子供だと、中学二年生ぐらいまで100マス計算とかで、ベースの計算力みたいなものがついてくる場合があります。

 それでね、言語学習に移行するまえに、世界の物事をひたすら見続けることを作ってくれるほうが大事なんです。子供を放っておくと、水滴が垂れるのをじーっと見続けていたり。世界を驚きをもって観察しつづけます。そして、それに言葉でラべリングをする。なぜを連発する。そういうもんです。

 そういう子供に概念的な操作を教えようとしても、ベースがないから入りませんよ。むしろ、世界を隅々まで見せるべきです。

 発達が速い子供は、確かに、概念的なことを教えても入ります。頭にすいすい入ります。でもさ、ちょっと考えればわかりますけど、体の発達なんてバラバラですよね。特にスポーツテストなんて、体が大きくなる成長期を早く終えた子供のほうが、いい成績が出るに決まっています。

 だから、小学生の子供がいる方には焦ってほしくないんです。大人の自己満足で概念学習に早く移行したところで、20歳、30歳の時の能力ってどうなの?というところを考えて欲しいわけです。

 確かに、社会ではスピードが評価されるわけですが、年齢による個体差は子供のころは一様ではない。今の一様な形が間違っている面もあるのです。だから、わたしは飛び級は賛成で、早く行ける子供は行ってしまうようにしつつ、ベースの学習はゆっくりと進むようにすればいいと思います。

 平等を唱える人は、子供の頃の個体の成長スピードの差をどうとらえるんでしょうね・・・。

 それでね、ベースの経験というか、子供のころに放っておけば子供がやるようなことの体験が抜け落ちて、無理やりいろいろ詰め込む方向に行ってしまっているようなことがある。

 そうすると、言語を学習しても、頭に入らない大学生やら、社会人が出てきている、と思うわけです。

 でね、これに対するソリューションとして、私が試みているのが、大学生、社会人を本気で遊ばせる。鬼ごっこをやったり、缶けりをやったり。その上で、そういう遊びでどういった能力が育まれるか?を遊んだ当人たちにディスカッションさせるといったことをやっています。

 セラピーでいう「育て直し」みたいなもんです。

 大学生の中には、「いいじゃないですか!子供時代からやり直せ!ってことですね。じゃないとバカは直らないってことですね!ぜひ参加したいです!」とノリノリで言う人もいて、ちょっと反応に困りますけど、本質を言い当てていて、困るわけです。

 で、子供には世界をきめ細かく観察してもらって、経験量を増やしてもらったほうが、言語を無理やり詰め込む、概念を操作させようとして結局バラバラな反応を作るだけ、ということよりもいいんではないの?ということでございます。
2012.06.19(20:31)|シンキングメソッドコメント(0)トラックバック(0)TOP↑
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・クライアントの成長を望むこと。具体的な解の提示よりも、その解を出すプロセスをシェアすることにより、クライアント自身がプロセスを組みなおし、異なった解を出す力を増加させることに重きを置くこと

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