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おはようございます。伊藤です。
最近は、ミスドで朝のコーヒーを飲んでいます。

スタバと上島の接客が、あまりにいやなので、
つい、ミスドです・・・。

純粋にコーヒーの味で言ったら、スタバ、上島がいいわけですが、
あまりに店員がいやなので、ミスドです・・・。

でも、ミスドはドリカムがすごい勢いで
ヘビーローテーションし続けています。
歌詞を覚えてしまいそうです。

さて、今日は社会について書きます。
いつも書いていますが(笑)。

今の社会は矛盾はあるだろうけど、
その資源、生産物の強力な配分機能から考えると、
肯定されるべきだと思います。

かつてない強力なレベルで、弱者に配分が行き渡りますもんね。

それでね、その配分機能を支えるのが自由なマーケットですよね。
人々が儲かるように動くことが、結局、全体としての配分の最大化に
資するわけです。

でも、俺はそんな配分なんていらない。俺は山奥で一人暮らしたい。
という人がいたとします。持続可能性があるかないかは別ですよ。

この人は、もはや社会に期待していないのですね。
社会からも受け取りたくないし、社会に貢献もしたくない。

この人に既存の社会の法は意味をなすでしょうか?
という問いがあります。

たとえば、人を殺してはいけない、という教えがどう意味をなすでしょうか?
こういうことを言うと嫌われそうですが、多分、この人は人を殺しても平気でしょうね。

社会に期待することがなければ、殺されても構わなければ、
別に人を殺しても、どうということはない。

そんなことはないんだ!人の心の奥底には善があるんだ!と
思いますでしょうか?

あんまりそう思わんのですよね。
実際に、怨恨で殺人というのは、普通に起きてきてますし・・・。
この前、ストーカー殺人が神奈川のほうでありましたよね。

それでね、社会に期待しない!というのは、結局、社会に無関心だから、
というよりは、社会に裏切られたという時のほうがあると思うんです。

簡単に言えば、フラれたり、会社をクビになったり、いじめられたり。

それでね、昔、とある高校で生徒会長をしていた女の人がおりまして。
OLとして地元企業で働いていたのですが、上司と不倫関係になり、
最後は、上司の家に放火して、一家全員お亡くなりになるという事件がありました。

それでね、その上司というのが、妻子がありながら、「妻とは別れる、キャシー(あだ名)と結婚する」
と言って、その女性と付き合っていて、やっぱり妻とは別れられない、と言って、上記のように
なったわけです。

これね、そりゃあ、そこまでバカにされりゃあ、みんな殺して自分も死ぬ!という気持ちに
なりますよね。

そもそも、社会は資源をみんなに配分して、みんなで生きていこう!というものです。
そうしないと、人は生きていけない。必ず集団の形成は必要です。
そこでは、人と人の争いが起こっても調整する機能はありますよね。

当然、人を殺していはいけないというルールはある。
でもね、人は人に損なわれると、社会から外れてもいい、つまり死んでもいいから
仕返しをする、ということがあります。

だから、尊厳という概念があって、それを尊重しましょうね、というふうになっているのだと
思います。その尊厳を守っていれば、社会の破壊、社会にネガティブな行動には向かわないだろう、と。

で、他人の尊厳を理不尽に損なうと、自分にしっぺ返しがある、
という認識が薄れているように見えます・・・。

変な意味で弱肉強食でしょうか。

好きなことがやりたい!と言って会社を辞める人も増えています。
そりゃあ、そういう側面はあるでしょうが、そのコミュニティー、会社組織が
良好な人間関係を保持している、一人一人が尊重し合っていれば、
居心地はいいですよね・・・。

スターバックスの最近の接客は嫌いですが、
バイトのマニュアルにはいいことが書いてあります。

スタフの間では「自己の威厳を保ちつつ、他者への敬意を払うべし」と
書いてあります。

ルールを整備するのはいいですけど、
そもそも、相互に尊重しあうカルチャーがないと、成り立ちませんよね。

リーダーには全く別のマインドがいるのですが、
それは今日は触れません。ごめんなさい。

で、利害調整の仕組みばかり組織に入れていませんか?
そもそも、そんな仕組みはないでしょうか・・・。

でも、その前に、それを守るインセンティブがあるようにする
「暗黙の前提」をある程度、明確にしないといけないような時代に
入っているような気がします。

それでは今日はこのあたりで。
次回をお楽しみに。
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2013.02.02(10:08)|シンキングメソッドコメント(0)トラックバック(0)TOP↑
おはようございます。伊藤です。
東京はまた雪の模様ですね。
この前よりはいいみたいですが・・・。

さて、今日は教育と社会のお話です。

「スクールカースト」というやつを
聞いたことがあるでしょうか?

今の学校の教室にはスクールカーストがある、
と指摘している教育学者、社会学者がいます。というかけっこう多数です。

それは何か?とシンプルに言えば
コミュニケーション能力によるカーストです。

そして、それは家庭教育レベルを如実に反映する
カーストです。しかも、抜けられない。カーストチェンジはない・・・。
輪廻転生しても繰り返すと思えるほどに恐ろしい圧力を持っています。

現在のライトノベルって、『バトルロワイヤル』以降、
クラスメイト同士で殺しあったりする展開が多いようです。
いわゆる教室内サバイバル的なお話です。

それでね、40代以上の人にはそれはピンと来ないのでは
ないか?と思うわけです。

40代以上の人にとって、クラスは画一的同調圧力の強い場で、
そこから外れることは問題な場であったのでしょう。

そこでは、全員が戦いあうという発想よりは、
教室が遭難したら、みんなで協力して困難に立ち向かう
ストーリーになるはずです。当然、時に離脱する子供もいるでしょうけど。

ただ、現在のクラスは、カースト維持圧力の強い場であり、
カースト内での同調圧力と、カースト間の身分固定化圧力が同時にかかる
複雑な場です。

するとね、教室が遭難したら、カースト間で戦いになり、カースト内で協力か裏切りか?
になるわけです。

すると、クラス内バトルロワイヤルがあり得るわけです。

これね、いつがきっかけか?といえば80年代の悪名高い臨教審から説明するのが
常套手段ですよね。

いわゆる個性の教育の開始です。

個性の教育の開始から、生涯学習やら、学習主体としての子供やら、
そういう概念が入ってきて、子供は個性をベースにみんなで仲良くはしなくなった・・・。
モロに出身階層、家庭の暮らし向きが似た連中でグループを作るようになった。
当初はそれがグループだった。

それが、どうも現在では身分として固定化され、カースト化したようなのです。

それでね、なぜ、コミュニケーション能力をベースとしたカーストが生じるのか?
コミュニケーション能力とはなんなのか?というところが疑問として残ると思います。

教員の間でも有名ですが、
かわいい女の子のコミュニケーション能力は高い。なぜか?
みんながよってきて、コミュニケーション機会に恵まれるからです。

でね、今時は子供服のブランドがこれでもか!とありますよね。
着ているものや、いろいろなイベントへの参加機会は、もろに親の収入レベルに
比例します。そういう子供がちやほやされる・・・。

でね、もしも、学校空間が個性の教育でなければ、そういう格差があったとして、
別にまったく関係がないのです。普通に授業やるだけですから。

でも、個性の教育と称して、学びあいの授業とかをやるとどうなるか?

当然、そういった家庭の収入レベルのアドバンテージが強く出てきますよね・・・。
そういう時間が長くなればなるほど、カースト化の傾向が強く出るというのはわかる話では
あります。

以前は、
家庭教育、地域教育が一つの軸としてあり、それは格差固定的であり、
学校教育が、人類の叡智を教えるための積み上げの場としてあり、それは格差とは関係ない
学問の元での平等の名のもとに行われていた。

でも、今は違う。コミュニケーション能力を磨くと称する学びあい教育は、
格差固定的、拡大的にしかありようがないですよね・・・。

しかし、現在では、
家庭教育、地域教育すら崩壊している。
かつ、学校教育すら崩壊している。

塾による受験ノウハウの蓄積で、言語と他のモーダルチャネルを介して得た表象の
結びつきの強化が行われない。言語での学習が進まない状況にある。

この中でどうすればいいのか?
ということで、私は大人をみんなで遊ばせる教育があるのではないか?
という仮説を提示しているわけです。

単純な遊びでは格差は出ません。
かごめかごめ、だるまさんが転んだをやって、コミュニケーション量の差が出るか?
出ませんよ。

おしくらまんじゅうはみんなが楽しいですよね。
まあ、女子もいたら少しだけセクハラ注意ですけど・・・。

そういう情報のインタラクション量が、おしなべて平等で、みんなが楽しくて、
その場のリアリティーが強い遊びをやれば、発達不全に陥っている部分の能力も
発達を始めるのではないか?と考えています。これはリハビリテーションからの
アナロジーですけどね。

ハイパーメリトクラシーをやるなら、
みんなで遊んだほうがいいでしょ?と。

新人研修の予算が降りる時期ですね。
ぜひ、遊び合宿に予算くださいね(笑)。

それでは、次回をお楽しみに。
2013.02.06(12:26)|ソーシャルコメント(0)トラックバック(0)TOP↑
こんばんは。伊藤です。
今日は本当に寒かったですね・・・。

さて、今日は強者と弱者の対立のお話です。

有名なニーチェのルサンチマン概念を知っていますか?

ニーチェは、グード=良いとは、
元々、強いという意味であった、と。
そして、シュレヒト=悪いは、元々は弱いという意味であった、と。

それが、「弱きことは幸いかな」というキリスト教によって、
「弱い=良い」という、価値の倒錯が起こった。

これね、これまでは系譜学の方法論とか、
ルサンチマンという事象だけが注目されてきたように
思いますけど、これを『強者と弱者の対立』として見ると、どうなるのか?
そのアナロジーで現代を捉えるとどうなるのか?
というところを少し考えてみましょう。

ニーチェはこの価値の倒錯を指摘することで、
強者を目指すべきだ、という主張をしています。

人は人を超えようとする、超人たるべし、という主張をしているわけです。

確かに、弱者の支配が行き過ぎると、
強くあろうと思うモチベーションが減退します。

すると、社会を変革する力、成長させる力のようなものが失われていく面がある。
だから、行き過ぎた弱者の支配はよろしくない。

でもね、それに対して、強者が強ければいいんだ!というふうになると、
弱者の誇りがどんどん失われる社会となってしまう。

弱者がすがることができる物語がないと、結局は、弱者が社会から零れ落ちていく。
それでは、社会が立ち行かなくなる。

私が思うのは、弱者と強者はそれなりの緊張関係を持ちながらも、
共存していくことが望ましいと思うわけです。

それでね、ここまでだとよくわからないと思うので、
最近の日本について少し考えてみましょう。

最近は、いわゆる格差社会と言われて、自殺者も多いといった状況です。
つまり、弱者が少し劣勢になってきている社会ではないかな?と。

でね、私が着目するのは、脱原発からネトウヨから、カルトまで、近年のよくわからない
小規模コミュニティー運動についてです。

これね、弱者が物語を求めているのではないかな?というふうに見えたりするのです。

これまでも書きましたが、いわゆる最近の教育は格差固定的です。
家庭教育、地域教育のレベルを直接的に反映するのが、いわゆるハイパーメリトクラシー教育です。
コミュニケーション能力などは、どうしても家庭教育レベルを反映し、それが公教育の場で行われるとすると、それは格差を拡大する要素を持ちます。

そして、学校の教室ではスクールカーストが固定化される。
コミュニケーション能力上位の人間が、上位者として振る舞い、恋愛などを謳歌し、
下位者はコミュ障として扱われる。そこに教師までが加担する。

下位者の資産額は非常に小さいことが多く、
上位者の資産額は大きいことが多いわけです。

東大に入る人の資産がでかくてでかくて、というのは
有名なお話ですね。

素朴な話としては、上位者が下位者に優しくあることは、
みんながうまくいくには大事です。

そのための教えとしては、ノブレスオブリージなどの概念があるわけです。

ただ、それは余裕があったら助けましょうが適切なのか、
それとも、弱者は救うべき!が適切なのか、たまに議論を呼びます。

でね、私の感覚では、その時の、強者と弱者の対立においてどちらが優位なのか?
によると思うのです。

弱者が優位ならば、強者は肩身が狭い雰囲気が形成されているはずなので、
強者は余裕があったら、弱者を助ければいいよ、でいいはずです。

強者が優位ならば、弱者の誇りが強く失われているはずなので、
強者は弱者を救うべき、であるべきです。

一億総中流の物語は、弱者を救う物語であったのではないでしょうか?
そして、ある意味で弱者に優しい世界が作られてきた。

その社会が行き詰まり始めた。00年代ぐらいでしょうか。

そうするとね、少しは自己責任論が強調されてもよかったと思います。
小泉改革はその気概を反映していたと思います。

でも、今、10年代に入って、弱者が転げ落ちていっているように見えます。
どの程度まで行けば行き過ぎなのか?はちょっと検証がいると思うんですけど。
強者は、この世界において、強きことを謳歌しているように見えます。

これに対する救いの物語は何だろう?と日本社会を見ると、
先にあげた、脱原発から、ネトウヨまで、いろいろな物語があるように見えます。
これが、全然大きくはなっていないところから見ると、まだまだ弱者への救いのニーズは
小さいかもしれません。

でもね、これが大きくなってきて、社会不安に近いところまで来ると、
新たな強い物語がまた必要なのではないかな?と。

ニーチェの永遠回帰と超人の物語は、強者のためのものだったと思います。
もうしばらくして、格差がもっと拡大して、多くの人が坂道を転げ落ちた時に、
弱者に向けた物語が本当に必要になり、それが出てくるのかもしれません。

ひょっとしたら、アーリア人は素晴らしい!と言いつつ、劣等民族を攻撃する物語かもしれませんし、
ひょっとしたら、弱きことは幸いかな、という物語かもしれませんし、
ひょっとしたら、所得が倍増するという物語かもしれません。

今は、強者が人生を謳歌しているように見えます。

しばらくすれば、強者が撃ち落される物語が出てくるのでは?
というお話ですね。心配しなくても、経済混乱が起これば、
今はプチリッチな資産数億円の人たちはみんな没落するんですけどね・・・。

その時、弱者の怨念はどこに行くんでしょうね・・・。
それを浄化する物語も必要ではないかな、と思いますけど。

それでは今日はこのあたりで。
次回をお楽しみに。
2013.02.16(08:49)|ソーシャルコメント(0)トラックバック(0)TOP↑
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