昨日は、ある経営者の方とランチしていました。
新規事業の立ち上げをすごくやられている方なんですが、どうも考え方のタイプ的に私と非常に似ていて、話しをするのがすごく楽でした。
本質的な部分を作り出すこと、考えることが得意で、見せ方というか、素晴らしく見えるようにというところが、どちらかというと、苦手なタイプなんですね。
実は私もそうです。何もないのに、さも何かがあるような見え方を作るというのは、ちょっと気が引けるんです。やりたくないんですね。
でも、お客さんを集めると言う意味では、そういう割り切りは非常に重要です。
その割り切りをするまで、非常に苦労したといったお話しで盛り上がりましたね・・・。
さて、今日は社会的なバリューについて書きますね。
ドイツのニュース番組をNHK衛星で見ていたら、興味を引かれるニュースがありました。
あるドイツ人医師が家族でオーストラリアに移住の申請を出していたのが、オーストラリア移民局から申請拒否されたというニュースです。
その理由は、息子さんがダウン症だから、将来オーストラリア当該地域の公的サービスのコスト増の恐れが大きいため、とのことでした。
日本であれば、「差別だ!」と言うところですよね。人権団体がうるさく騒ぎ立てるのはありありと目に浮かびますし、識者と言われる人々がさもわかったような差別に対する認識を述べるでしょう。
ただ、興味深かったのはそのニュースでは、その「コスト増」への反論として関係者が言っているのが、その医師の社会貢献効果でした。毎週数千人の診療を行うことができる優秀な医師がもたらす価値についてオーストラリア官僚がまじめに述べているのです。
父親のコメントも、「私が地域社会にもたらす効果、価値が全く認められず、息子の病気が将来もたらすコストについてのみフォーカスした判断で極めて遺憾!」というものでした。
このお話しは、家族がオーストラリア社会にもたらす価値と、社会から受けるサービスのコストは、家族単位でプラスなのかマイナスなのか?というのがポイントなのです。
家族単位で社会に価値をもたらすことは、言わばお話しの前提なのです。
前にインサイトナウに書きましたが、日本は集団、企業などが社会の責任ある構成単位を担っている、お金を儲けるならば、社会への責任を果たさなくてはいけない、といった考え方が強いが、米国では、個人が社会の構成単位という認識が強いです。
以前の記事はhttp://www.insightnow.jp/article/2253ですね。
このニュースからわかることは、ドイツ、オーストラリアでは、家族も社会への責任を果たさなくてはいけない。社会コスト以上の価値を生み出すのだ!という考え方をするということですよね・・・。
日本でも、社会サービスの恩恵を受けていない人はいませんよね。そのコストと、自分が社会に与えている価値の大きさを比較して考えている人はあんまりいないように思います。
いわば、税金払っているんだから当然だ、といった方も多いですね。
でも、税金を払うのは当たり前で、その上で自分の活動の社会に与える価値について考えている人々が住まう社会と、税金を払う以外何もしませんという社会では、豊かさ、幸せの総量というのが違うのでは?と思うのです。
あえて言いますと、日本だと、ダウン症の子供はかわいそう、という議論に終始するような気がします。でも、心身障害者の方々に対するパブリックなサービスコストは税金から出ています。
だから、そのサービスにいくらのコストをかけているのか?それはいくらぐらいが妥当なのか?の議論はすごく大事だと思います。
更に、家族と社会でやり取りされる価値の収支を考えるということは、恥ずかしながら私は考えたこともありませんでした。
果たして社会から受けているサービス以上の価値を、自分が社会に提供できているのか?個人では?家族単位では?
そういった問いを社会に住まう一人一人が考えることが、ある意味、ソーシャルバリューの向上につながりますよね。
私も経営者ですので、会社の理念としては、企業が社会にどんな価値を与えることによって、社会をどのように、よりよくしていきたいのか?は問い続けてきました。
自社の宣伝のようで恐縮ですが、当社は「コンサルティング7つの誓い」という理念を掲げ、社会にビジネスナレッジを行き渡らせていこうとしています。
世の中的には社会起業やCSRがある意味でブームになってきてもいますよね。
でも、このニュースを見て、社会起業と称する人々の議論を聞いて、大企業のCSRへの取り組みを見て、まだまだ日本は成熟していない、という印象を新たにし、もっと本質に立ち返って考える基礎研究的な日本人が苦手な部分がすごく必要なんだな、と思いましたね・・・。
新規事業の立ち上げをすごくやられている方なんですが、どうも考え方のタイプ的に私と非常に似ていて、話しをするのがすごく楽でした。
本質的な部分を作り出すこと、考えることが得意で、見せ方というか、素晴らしく見えるようにというところが、どちらかというと、苦手なタイプなんですね。
実は私もそうです。何もないのに、さも何かがあるような見え方を作るというのは、ちょっと気が引けるんです。やりたくないんですね。
でも、お客さんを集めると言う意味では、そういう割り切りは非常に重要です。
その割り切りをするまで、非常に苦労したといったお話しで盛り上がりましたね・・・。
さて、今日は社会的なバリューについて書きますね。
ドイツのニュース番組をNHK衛星で見ていたら、興味を引かれるニュースがありました。
あるドイツ人医師が家族でオーストラリアに移住の申請を出していたのが、オーストラリア移民局から申請拒否されたというニュースです。
その理由は、息子さんがダウン症だから、将来オーストラリア当該地域の公的サービスのコスト増の恐れが大きいため、とのことでした。
日本であれば、「差別だ!」と言うところですよね。人権団体がうるさく騒ぎ立てるのはありありと目に浮かびますし、識者と言われる人々がさもわかったような差別に対する認識を述べるでしょう。
ただ、興味深かったのはそのニュースでは、その「コスト増」への反論として関係者が言っているのが、その医師の社会貢献効果でした。毎週数千人の診療を行うことができる優秀な医師がもたらす価値についてオーストラリア官僚がまじめに述べているのです。
父親のコメントも、「私が地域社会にもたらす効果、価値が全く認められず、息子の病気が将来もたらすコストについてのみフォーカスした判断で極めて遺憾!」というものでした。
このお話しは、家族がオーストラリア社会にもたらす価値と、社会から受けるサービスのコストは、家族単位でプラスなのかマイナスなのか?というのがポイントなのです。
家族単位で社会に価値をもたらすことは、言わばお話しの前提なのです。
前にインサイトナウに書きましたが、日本は集団、企業などが社会の責任ある構成単位を担っている、お金を儲けるならば、社会への責任を果たさなくてはいけない、といった考え方が強いが、米国では、個人が社会の構成単位という認識が強いです。
以前の記事はhttp://www.insightnow.jp/article/2253ですね。
このニュースからわかることは、ドイツ、オーストラリアでは、家族も社会への責任を果たさなくてはいけない。社会コスト以上の価値を生み出すのだ!という考え方をするということですよね・・・。
日本でも、社会サービスの恩恵を受けていない人はいませんよね。そのコストと、自分が社会に与えている価値の大きさを比較して考えている人はあんまりいないように思います。
いわば、税金払っているんだから当然だ、といった方も多いですね。
でも、税金を払うのは当たり前で、その上で自分の活動の社会に与える価値について考えている人々が住まう社会と、税金を払う以外何もしませんという社会では、豊かさ、幸せの総量というのが違うのでは?と思うのです。
あえて言いますと、日本だと、ダウン症の子供はかわいそう、という議論に終始するような気がします。でも、心身障害者の方々に対するパブリックなサービスコストは税金から出ています。
だから、そのサービスにいくらのコストをかけているのか?それはいくらぐらいが妥当なのか?の議論はすごく大事だと思います。
更に、家族と社会でやり取りされる価値の収支を考えるということは、恥ずかしながら私は考えたこともありませんでした。
果たして社会から受けているサービス以上の価値を、自分が社会に提供できているのか?個人では?家族単位では?
そういった問いを社会に住まう一人一人が考えることが、ある意味、ソーシャルバリューの向上につながりますよね。
私も経営者ですので、会社の理念としては、企業が社会にどんな価値を与えることによって、社会をどのように、よりよくしていきたいのか?は問い続けてきました。
自社の宣伝のようで恐縮ですが、当社は「コンサルティング7つの誓い」という理念を掲げ、社会にビジネスナレッジを行き渡らせていこうとしています。
世の中的には社会起業やCSRがある意味でブームになってきてもいますよね。
でも、このニュースを見て、社会起業と称する人々の議論を聞いて、大企業のCSRへの取り組みを見て、まだまだ日本は成熟していない、という印象を新たにし、もっと本質に立ち返って考える基礎研究的な日本人が苦手な部分がすごく必要なんだな、と思いましたね・・・。
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