いつごろからでしょうか?
禅問答が好きでした。今日のお話は禅問答的なので、きっとほとんど意味不明です。ごめんなさい。
わかっている人はわかるけど、わからない人には伝わらない言葉。
幼いころからそういった言葉に神秘?を感じていました。
「あなたが宇宙を覗くとき、宇宙もあなたを覗いてる」とかね。
「個にして全、全にして個」とかね。
人の歴史を紐解けば、「言葉を否定する」哲学、宗教は多々あります。
まあ、そりゃそーですね。人間の思考は言葉で規定されている面もありますが、それより抽象的なところではイメージという言葉があてはまるかわかりませんが、そういう感覚的なもので規定されているでしょうから。
西田幾太郎という人が、戦前の哲学者でいますね。あのあたりの思想には何かある、といつも思っていました。柄谷行人さんの本とかに、よく出てきてましたね。
「空」の概念とかね。「人は空である。空が空ずるゆえの否定の運動としての人間」とか、意味不明な文章でしたが、今はなんとなく感覚的にわかります。
そういえば私が一時期傾倒したNLP。暗示技法炸裂な技術ですね・・・。
そのNLPの巨人といわれる人々も、次第に言語モデルのNLPからは手を引きました。
タゾジェームスはハワイのシャーマン研究に没頭したらしいですね。ロバートディルツもアフリカかどこかのスピリチュアルなヒトの研究でしたっけ?ほかの方も基本的にはシャーマンやら、巫女さんやらの研究に走りましたよね。
なぜか?
コミュニケーションでもっとも大事な部分はノンバーバル、言葉ではないからですね。シャーマンの近くによっただけで、安心してしまう、というのはありますよね・・・。
言葉は確かに空間を越えられる面はありますが、イエスや釈迦の教えは言葉ではなかなか伝わらないでしょうね・・・。
哲学書がやたらと難解な言語で記述されるのも、抽象的過ぎる領域を扱おうとしているからでしょう。
ちょっと飛びますが、人間に自由意志はあるのか?というのは私の大きな問いです。
だって、結局ノンバーバルなところでのコミュニケーションに人は影響されてしまう。
いわゆる、ナポレオンヒルとか、マーフィーのお話しはこのへんのメカニズムなのでしょうね。一番強力に心配していることは現実化してしまう・・・。場を共有していればそうなってしまうんですね・・・。
そういう自分の心理から、外部の動きを読んでみたりすることもありますけど。
コンサルタントとしての私を嫌う人、反発する人は当初は改革に好意的です。
でも、自分が本当は自分の都合がよいようにしたいだけなので、反発へと転化していきます。
そういう人は「私になりたい」という感じがなんとなくするなあとこの仕事を始めたころから思っていました。で、これまでの経験からそうなんだな、というのがよりリアルにわかってきました。
人は場を共有した瞬間に、いろいろな関係性が発生し、人の思考、世界観は影響を受けていく。反発する人の心配はしません。結局、一番私の影響を受けるからですね。私のしていることがしたくなるんです。
おそろしいことですね・・・
じゃあ、その自分てなんなんだろう?そもそも自分なんてあるの?とも思います。
ただ、偉大な宗教家とか、哲学者の伝記を紐解くと、どうやら大きなほうへ、より上のほうへ思考の領域を広げていけば、自分の世界は広がり、自分の自由意志でいられる。
ただ、それは自分以外の人間の自由意志の一時的な否定ではあるのですが・・・。
自分の世界の煙突掃除のために、ふらふらとやってきましたが、その局面も最終段階ぐらいに入ってきました。目標はほぼ達成。最後の掃除も終わりに入りつつあります。
ようやく最後のピースがはまる感じです。当然、当初規定した世界の範囲内のお話しで、また別の世界が規定されれば、その世界の中で、いろいろと課題はあるのでしょうけどね。
ただ、人の思考は加速しますね。なんでしょう。オセロが一手ですべて裏返っていくような、そんな感じです。そのスピードがすごくてちょっと戸惑っています。
ただ、それはもうとまらないのでしょうね。カラフルな人生です。とても彩りが濃くて、深い。
自分の体に心をめぐらせると、記憶はいつでも蘇ってきます。よく、記憶力がなんでそんなにあるんですか?といわれますが、抽象的な記憶です。詳細までは正しいかどうかわかりません。でもね、体はすべて知っているというか、そういう感覚なんですよね。
私も葛藤を結局深いところで望んでしまっていましたし、これからもいろいろな葛藤が起こるかもしれません。ただ、それは人生の彩りなのだと思います。そして、それを読み解く必要もそのうちなくなるのかもしれません。
それをただ受け入れるだけになるのかもしれません。結局、人間をどう規定したいか?によるんですよね。葛藤のない世界というのも、ちょっと面白くないでしょうね。静的な世界観にはどうしても違和感を感じてしまう。
もっとダイナミックな感じのほうが、やっぱり生きている感じになれますよね。
1つ1つの彩りに感謝しつつ、どんな未来を、世界を私は望むのだろう?というところを本筋は決めつつ、ちょっとランダムにしつつ生きるほうが楽しいかな、という感じです。
ごめんなさい。今日は意味不明ですね。
読んでいただいた皆様、本当にありがとうございます。
禅問答が好きでした。今日のお話は禅問答的なので、きっとほとんど意味不明です。ごめんなさい。
わかっている人はわかるけど、わからない人には伝わらない言葉。
幼いころからそういった言葉に神秘?を感じていました。
「あなたが宇宙を覗くとき、宇宙もあなたを覗いてる」とかね。
「個にして全、全にして個」とかね。
人の歴史を紐解けば、「言葉を否定する」哲学、宗教は多々あります。
まあ、そりゃそーですね。人間の思考は言葉で規定されている面もありますが、それより抽象的なところではイメージという言葉があてはまるかわかりませんが、そういう感覚的なもので規定されているでしょうから。
西田幾太郎という人が、戦前の哲学者でいますね。あのあたりの思想には何かある、といつも思っていました。柄谷行人さんの本とかに、よく出てきてましたね。
「空」の概念とかね。「人は空である。空が空ずるゆえの否定の運動としての人間」とか、意味不明な文章でしたが、今はなんとなく感覚的にわかります。
そういえば私が一時期傾倒したNLP。暗示技法炸裂な技術ですね・・・。
そのNLPの巨人といわれる人々も、次第に言語モデルのNLPからは手を引きました。
タゾジェームスはハワイのシャーマン研究に没頭したらしいですね。ロバートディルツもアフリカかどこかのスピリチュアルなヒトの研究でしたっけ?ほかの方も基本的にはシャーマンやら、巫女さんやらの研究に走りましたよね。
なぜか?
コミュニケーションでもっとも大事な部分はノンバーバル、言葉ではないからですね。シャーマンの近くによっただけで、安心してしまう、というのはありますよね・・・。
言葉は確かに空間を越えられる面はありますが、イエスや釈迦の教えは言葉ではなかなか伝わらないでしょうね・・・。
哲学書がやたらと難解な言語で記述されるのも、抽象的過ぎる領域を扱おうとしているからでしょう。
ちょっと飛びますが、人間に自由意志はあるのか?というのは私の大きな問いです。
だって、結局ノンバーバルなところでのコミュニケーションに人は影響されてしまう。
いわゆる、ナポレオンヒルとか、マーフィーのお話しはこのへんのメカニズムなのでしょうね。一番強力に心配していることは現実化してしまう・・・。場を共有していればそうなってしまうんですね・・・。
そういう自分の心理から、外部の動きを読んでみたりすることもありますけど。
コンサルタントとしての私を嫌う人、反発する人は当初は改革に好意的です。
でも、自分が本当は自分の都合がよいようにしたいだけなので、反発へと転化していきます。
そういう人は「私になりたい」という感じがなんとなくするなあとこの仕事を始めたころから思っていました。で、これまでの経験からそうなんだな、というのがよりリアルにわかってきました。
人は場を共有した瞬間に、いろいろな関係性が発生し、人の思考、世界観は影響を受けていく。反発する人の心配はしません。結局、一番私の影響を受けるからですね。私のしていることがしたくなるんです。
おそろしいことですね・・・
じゃあ、その自分てなんなんだろう?そもそも自分なんてあるの?とも思います。
ただ、偉大な宗教家とか、哲学者の伝記を紐解くと、どうやら大きなほうへ、より上のほうへ思考の領域を広げていけば、自分の世界は広がり、自分の自由意志でいられる。
ただ、それは自分以外の人間の自由意志の一時的な否定ではあるのですが・・・。
自分の世界の煙突掃除のために、ふらふらとやってきましたが、その局面も最終段階ぐらいに入ってきました。目標はほぼ達成。最後の掃除も終わりに入りつつあります。
ようやく最後のピースがはまる感じです。当然、当初規定した世界の範囲内のお話しで、また別の世界が規定されれば、その世界の中で、いろいろと課題はあるのでしょうけどね。
ただ、人の思考は加速しますね。なんでしょう。オセロが一手ですべて裏返っていくような、そんな感じです。そのスピードがすごくてちょっと戸惑っています。
ただ、それはもうとまらないのでしょうね。カラフルな人生です。とても彩りが濃くて、深い。
自分の体に心をめぐらせると、記憶はいつでも蘇ってきます。よく、記憶力がなんでそんなにあるんですか?といわれますが、抽象的な記憶です。詳細までは正しいかどうかわかりません。でもね、体はすべて知っているというか、そういう感覚なんですよね。
私も葛藤を結局深いところで望んでしまっていましたし、これからもいろいろな葛藤が起こるかもしれません。ただ、それは人生の彩りなのだと思います。そして、それを読み解く必要もそのうちなくなるのかもしれません。
それをただ受け入れるだけになるのかもしれません。結局、人間をどう規定したいか?によるんですよね。葛藤のない世界というのも、ちょっと面白くないでしょうね。静的な世界観にはどうしても違和感を感じてしまう。
もっとダイナミックな感じのほうが、やっぱり生きている感じになれますよね。
1つ1つの彩りに感謝しつつ、どんな未来を、世界を私は望むのだろう?というところを本筋は決めつつ、ちょっとランダムにしつつ生きるほうが楽しいかな、という感じです。
ごめんなさい。今日は意味不明ですね。
読んでいただいた皆様、本当にありがとうございます。
- 関連記事
-
- 自分との和解 (2009/08/05)
- 禅問答的に近況を書くと・・・ (2009/07/25)
- 場の意味 (2009/07/24)
スポンサーサイト