今日は、特に役に立たないお話しかもしれないことを書きます。
まあ、いつも役立っているかは相当微妙ですけどね。
今日は、認識についてちょっと書きます。
認識というと、西洋哲学では、長いこと論争のテーマでしたね。
絶対的な認識に人は到達できるのか?というような問いですね。
それは、世界がどうできているのか?という問いに人間が答えられるのか?という問いに近いですね・・・。
まあ、そんな論点の周囲に、唯物論、唯心論といった考え方がありました。
唯物論というのは、モノの世界しかないんだ。心なんてないんだ。というような考え方ですね。
世界は原子でできている!みたいなお話しはそこから来ていますよね。万物の最小の構成単位を探る試みは、世界に生じる事象はすべて物質に拠っているのでは?という考え方に依拠する場合が多いですよね。
万物の根源は水であるとか、火であるとか。いろいろと考えられていて。原子、アトムなんだ!というのが正しそうだということになって。今は、クオークとかそういうお話しになってきていますね・・・。
こういう考え方に依拠すると、心は、脳で発火現象が起きているだけなんだ!という言い方になります。そう感情はただの化学反応だ、ということになります。
化学反応があって、感情が動く、みたいなね。入力は物理側で、結果として感情が生じる、みたいなね。そういう考え方になります。モノがあるから、それが見えるみたいな。人間の心の事象は、すべて、「モノ」オリエンテッド、「モノ」ドリブンで起きていると。
でもまあ、それも変な気がする。しますよね?なんかそうなのかなあ、と。
これと全く逆の立場が唯心論。心こそ、すべてを生じさせるものである、と。その心の先に神がいる、みたいな・・・。
これを乱暴に突き詰めていくと、物自体なんてないんだ、みたいなお話しになります。心が生じさせているんだ、みたいなね。スタートレックの欲しいものを見せる星みたいな。そういうお話しですね。
乱暴に言うとへんな感じがしますが、感情が生じるような状態があるから、感情が生じて、脳のどこかが発火するみたいなほうが自然な気もしますよね。
でまあ、この2つの世界観のどちらが正しいかはおいておくと、要素はどうも2つあるらしいと考えられます。心と、モノ。この2つは両方あると考えると自然かな、と。
でもね、そうすると、心はモノのありようを正しく認識できるのか?というのも問題になりますよね。
人によって、どうも同じモノを見ても認識は違うようだ、というのはなんとなく正しい。全く同じ認識を別の人間がしている保障はないですよね。そうすると、その違いはどこで生じるの?というのも問題になります。
どうも、今のところ、正しくは認識できなさそう、というのがなんとなく正しい気がしますよね。
で、人間の身体はモノにも属しているし、心にも属しているような気がするのですが、どっちかにしか属していない認識主体があったら便利ですけどね。私は心しかありませんという人とか。まあ、「霊」みたいな概念はそういうところにあるのでしょう。肉体の束縛から解き放たれているというか、なんというか。
肉体しかない認識主体なんてものはないのでしょうか?まあ、ないですね。認識する時点で、それは心があるのでは?というか意思があるのでは?ということになりますから。
そうすると、人間というか、生き物はモノにも属して、心にも属しているという不思議な位置づけになってきますよね。心の世界が広がっているとします。そして、モノの世界も広がっているとします。
そうすると、その両者のハザマというか、間に生命がある?
なんとなく、人間がいる場所のイメージとしては、私の中では、モノの平面と、心の平面がべったりくっついているようなハザマのような場所をイメージします。
心の世界を覗き込んでみると、トランスパーソナル的な世界になっていて。いわゆるヘーゲルのいうような絶対精神につなっていくようなイメージ。
モノの世界は、それはそれであり、人間は肉体があるから、そのモノの世界を肉体を介して認識して、作り変えていくような感じ?
スピリチュアルが効く対象はあくまで人間の心であって、物理現象としては生じない。人間を介してしか生じないと思います。
たとえば、気功を操る人がいたとして、ハー、とやると、人が吹っ飛ばされたりしますが、岩にハーっとやっても、何も起きないと思います。
心を介して、認識を介して、人は人にいろいろなことができますが、モノに対しては、体を物理的に接触させていかないと、何もできないですね。そのために道具が発達したのだと思います。
これまで、道具がやたらと発達して、モノを作ったりすることにすごい労力がかけられて、そのおかげで、物理的に人の肉体を喜ばせることは一通り発達してきました。でも、その時に、心に対する作用というかバリューはあまり論じられてきていないですね。まさにこれからです。
心の時代と言われて久しいのですが、まだまだ心の時代というほど、カネと、心をどうにかすることの交換は行われていませんね。
このお話しで、ビジネスに関係するポイントとしては、人間はモノによって、物理的なメリットも享受するけど、精神的なメリットも享受しうるということです。そう、機能的価値と情緒的価値です。モノはモノとしてあるのに、人間を介した瞬間に、物理的というか、機能的なバリューと、心というか、精神的というか、情緒的なバリューに分かれるのですね。
私が、バリューをこの2つに分ける分け方をする意味は、こういう世界観だからです。
こういう世界観をベースにすると、いろいろな経営の概念を再定義できるような気がします。マーケティングに関しても、コンセプトを違う角度から見ること、説明することができますよね。そうすると、アクションがだいぶ変わってくるように思います。
まあ、でも、こういうことを言っても、ほぼ伝わりませんね。まあ、結果だけいうと、すごいといわれますが、プロセスの説明を試みると、「伊藤さんて、頭がおかしいぐらいな感じですよね。」と言われます。まあ、いいのです。
行動でなんとかしようとしても、行動中心に経営を見るだけでは限界がすぐ来ます。認識中心で経営を見ると、相当違ったものが見えてくると思います。時代は、認識のほうへと動いていると私は思います。
ただね、アクションオリエンテッドで考える時期も必要なんですよ。それはそうです。でも、その先に行くには、レコグニションオリエンテッドに移行する必要があると思っています。
まあ、今日は意味不明でしたが、まあ、そんな感じです。
では、次回をお楽しみに。
まあ、いつも役立っているかは相当微妙ですけどね。
今日は、認識についてちょっと書きます。
認識というと、西洋哲学では、長いこと論争のテーマでしたね。
絶対的な認識に人は到達できるのか?というような問いですね。
それは、世界がどうできているのか?という問いに人間が答えられるのか?という問いに近いですね・・・。
まあ、そんな論点の周囲に、唯物論、唯心論といった考え方がありました。
唯物論というのは、モノの世界しかないんだ。心なんてないんだ。というような考え方ですね。
世界は原子でできている!みたいなお話しはそこから来ていますよね。万物の最小の構成単位を探る試みは、世界に生じる事象はすべて物質に拠っているのでは?という考え方に依拠する場合が多いですよね。
万物の根源は水であるとか、火であるとか。いろいろと考えられていて。原子、アトムなんだ!というのが正しそうだということになって。今は、クオークとかそういうお話しになってきていますね・・・。
こういう考え方に依拠すると、心は、脳で発火現象が起きているだけなんだ!という言い方になります。そう感情はただの化学反応だ、ということになります。
化学反応があって、感情が動く、みたいなね。入力は物理側で、結果として感情が生じる、みたいなね。そういう考え方になります。モノがあるから、それが見えるみたいな。人間の心の事象は、すべて、「モノ」オリエンテッド、「モノ」ドリブンで起きていると。
でもまあ、それも変な気がする。しますよね?なんかそうなのかなあ、と。
これと全く逆の立場が唯心論。心こそ、すべてを生じさせるものである、と。その心の先に神がいる、みたいな・・・。
これを乱暴に突き詰めていくと、物自体なんてないんだ、みたいなお話しになります。心が生じさせているんだ、みたいなね。スタートレックの欲しいものを見せる星みたいな。そういうお話しですね。
乱暴に言うとへんな感じがしますが、感情が生じるような状態があるから、感情が生じて、脳のどこかが発火するみたいなほうが自然な気もしますよね。
でまあ、この2つの世界観のどちらが正しいかはおいておくと、要素はどうも2つあるらしいと考えられます。心と、モノ。この2つは両方あると考えると自然かな、と。
でもね、そうすると、心はモノのありようを正しく認識できるのか?というのも問題になりますよね。
人によって、どうも同じモノを見ても認識は違うようだ、というのはなんとなく正しい。全く同じ認識を別の人間がしている保障はないですよね。そうすると、その違いはどこで生じるの?というのも問題になります。
どうも、今のところ、正しくは認識できなさそう、というのがなんとなく正しい気がしますよね。
で、人間の身体はモノにも属しているし、心にも属しているような気がするのですが、どっちかにしか属していない認識主体があったら便利ですけどね。私は心しかありませんという人とか。まあ、「霊」みたいな概念はそういうところにあるのでしょう。肉体の束縛から解き放たれているというか、なんというか。
肉体しかない認識主体なんてものはないのでしょうか?まあ、ないですね。認識する時点で、それは心があるのでは?というか意思があるのでは?ということになりますから。
そうすると、人間というか、生き物はモノにも属して、心にも属しているという不思議な位置づけになってきますよね。心の世界が広がっているとします。そして、モノの世界も広がっているとします。
そうすると、その両者のハザマというか、間に生命がある?
なんとなく、人間がいる場所のイメージとしては、私の中では、モノの平面と、心の平面がべったりくっついているようなハザマのような場所をイメージします。
心の世界を覗き込んでみると、トランスパーソナル的な世界になっていて。いわゆるヘーゲルのいうような絶対精神につなっていくようなイメージ。
モノの世界は、それはそれであり、人間は肉体があるから、そのモノの世界を肉体を介して認識して、作り変えていくような感じ?
スピリチュアルが効く対象はあくまで人間の心であって、物理現象としては生じない。人間を介してしか生じないと思います。
たとえば、気功を操る人がいたとして、ハー、とやると、人が吹っ飛ばされたりしますが、岩にハーっとやっても、何も起きないと思います。
心を介して、認識を介して、人は人にいろいろなことができますが、モノに対しては、体を物理的に接触させていかないと、何もできないですね。そのために道具が発達したのだと思います。
これまで、道具がやたらと発達して、モノを作ったりすることにすごい労力がかけられて、そのおかげで、物理的に人の肉体を喜ばせることは一通り発達してきました。でも、その時に、心に対する作用というかバリューはあまり論じられてきていないですね。まさにこれからです。
心の時代と言われて久しいのですが、まだまだ心の時代というほど、カネと、心をどうにかすることの交換は行われていませんね。
このお話しで、ビジネスに関係するポイントとしては、人間はモノによって、物理的なメリットも享受するけど、精神的なメリットも享受しうるということです。そう、機能的価値と情緒的価値です。モノはモノとしてあるのに、人間を介した瞬間に、物理的というか、機能的なバリューと、心というか、精神的というか、情緒的なバリューに分かれるのですね。
私が、バリューをこの2つに分ける分け方をする意味は、こういう世界観だからです。
こういう世界観をベースにすると、いろいろな経営の概念を再定義できるような気がします。マーケティングに関しても、コンセプトを違う角度から見ること、説明することができますよね。そうすると、アクションがだいぶ変わってくるように思います。
まあ、でも、こういうことを言っても、ほぼ伝わりませんね。まあ、結果だけいうと、すごいといわれますが、プロセスの説明を試みると、「伊藤さんて、頭がおかしいぐらいな感じですよね。」と言われます。まあ、いいのです。
行動でなんとかしようとしても、行動中心に経営を見るだけでは限界がすぐ来ます。認識中心で経営を見ると、相当違ったものが見えてくると思います。時代は、認識のほうへと動いていると私は思います。
ただね、アクションオリエンテッドで考える時期も必要なんですよ。それはそうです。でも、その先に行くには、レコグニションオリエンテッドに移行する必要があると思っています。
まあ、今日は意味不明でしたが、まあ、そんな感じです。
では、次回をお楽しみに。
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