セミナーやりたいんですけどね。でも、時間的にちょっとね。
最近は、ビジネスナレッジの大衆化は意味があるのか?がだいぶ疑問です。結局、ロジカルシンキングにしても、いわゆるフレームワークにしても、大衆化して普及したはずですが、結局しっかり使えている人は、ほぼおらず、かえって混乱をもたらしているようにも思います。
それは、当然、街角の研修商売をやっている人がそもそも企画なんてしていないという大きな問題があります。わかってない人が教えても、教えられない。わかっている人でも、大事なところは教えるのはなかなか難しい。受け手側の問題もあります。
そして、そもそも企画業務に携わる人は少数派ですし。何かを考えることを求められる人は非常に少なく、たいていはオペレーションレベルしか求められません。「改善」は確かに企画的な側面もあり、ちょっと変えるレベルのことも大事は大事ですが、当人たちが思うほどインパクトはない。
でも、企画をやりたい!とか言う若い人は多くて。ただ、経験量がないとそもそも考える、直感的に新しいことを発想することさえも難しくて。とは思います。
が、本当に企画するということを考えた時に、それはどんなことなのか?ということについていくつかTwitterでポストしました。受け取る側に要求するものが多い内容ではありますが、見てみましょう。
①人は行為にたいする意味合いでそもそも世界を見ている。ただ、その意味合いは必ずしも言葉ではない。かつ、その意味合いの言語化に人は必ずしも意識的ではなく、言語化は言語を操る能力が高くなければできない。
②人は言葉を見たとしても、その指し示す意味あいを読み取ることは、必ずしもできない。その行為の経験がなければ、それはなおさらである。
③更に人は言葉に囚われて、気づかないうちに自分の行為を縛ってしまうことがある。女言葉を使ったりすることによって、身体的な差異以上に女が作られることもある。
④行為による意味合い以上に言葉に囚われて、意味合いの言語化ができなくなっている場合も多々ある。というか、ほとんどのビジネスパーソンは企業の未来の行為に対する意味合いで環境を見られていない。
⑤行為の経験を積み、かつ言語化の技術を高めていかなければ、未来の行為に対する意味合いで環境を見られるようにはならない。この環境を見て意味合いを知覚し、言語化することがほぼビジネスにおいて考えるということに等しい。
⑥では、その未来の行為はどう考えるのか?というと、たいていはアナロジーであったりする。ただ、その時、名付けとその概念規定によって、新しい行為であることの主張をすることで、アナロジーを越えた新しい概念として認めさせる。この時の主張はある種の権力闘争的である。
⑦その権力闘争に勝つことで、その新しい行為は名前と概念範囲を獲得し、実行へと移される。闘争への勝利の度合いが強ければ強いほど、実行可能性は高まる。
多分、読んでさらさら意味が入ってくる人は、普段企画して、実行まで導くようなことをやっている人ですね。そういう人には学びはない内容です。わからんけど、何が学べる?これはどんなことだろう?と考えると意味があると思います。
さて、解説です。そもそも、世界を人は「客観的」には見ていないことはわかりますよね。何で見るのか。「行為への意味合いで見ている」と思います。どういうことか。
真面目に説明すると、いくつかの要素を言わなくてはいけないので、言ってみることを試みます。
自分が見ている何かと関わって行為するとして、ということへの意味合いで環境を見ます。それは言語化しなくてもそうですね。ゲシュタルトという知覚に関わる能力が人間には備わっていると言われますが、それだけでなく、関わって行為することへの意味合いで環境を見る。
すごく品のないことを言うと、中学生は女子を見ると、セックスするとすると?という意味合いで見るでしょう。自分が彼女とできるかどうか?が大きな問題で、その上で関わりがあります。
言語化するとかえってぎこちなくなったりして緊張してしまったりしますけどね。
いわゆるファクトをネタにして、人はいろんなことを言います。新聞記事からファクトだけを抽出してみると、その人が織り込んでいる意味合いがより鮮明に見えてきたりしますね。
そういうのを「主観的」だという批判もあり、ファクトだけを並べるのが価値なんだ!と言ったりする人もいます。ただ、ファクトがいつでも使える状況があることはいいことかもしれませんが、どういう行為をサポートし得るのか?という意味合いがないと、いくらファクトがあっても、世界は何も変わりません。
未来の世界を変えるために、人が行為をする。どう行為するか?を考えるのが企画です。だから、行為に対する意味合いで世界をそもそも見ているということは、素直にやりたいこと、やろうとイメージしていることがあれば、それをサポートし、どうやるか?というところから物事は見えます。
ただ、当然ビジネスにおいては、利回りがないとサステイナブルではないという制約条件がつきますから、やりたくても「ビジネス」としてはやれないこともありますね。そのためにフィージビリティスタディーがあったりするのです。
ただ、その意味合いを言語化、意識化してみましょう、というと、途端にできなくなる。自分がファクトに見ている意味合いが、言葉にできない。当人にはそう見えるものが「客観的」という思いもあるでしょうから、それが自分の「未来の行為」からの意味合いとしての風景だということは、なかなか了解しづらい。
こういう時に有用な質問は、もしも、「自分がいないとしたら」という質問です。あんまりやりすぎると無気力になるのですが、そういうことを考えてみると、世界がいろんな意味合いで見えてきたりします。もしくは意味合いの薄い世界が見えるかもしれません。
これ、やりすぎると気力がわかなくなってくるので、気力がなくなってきたら「天上天下唯我独尊」ぐらいを言ってバランスを取っておきましょうね。
こういう、自分が普段見えているものが、「意味合い」が織り込み済みだということがわかってくると、いろんな「行為」をゴールにして考える、ということができるようになってきます。
結局、いろんな行為に対する意味合いで内部、外部の環境をみて、それを書くのが企画です。
ここまで書いてて、書ききれないと思い始めました・・・。まだ、①についてしか書いてませんね・・・。多分、ここまでの情報量でも大変だとは思いますので、今日はこのあたりで。
さて、今日も仕事するぞー。では、次回をお楽しみに。
最近は、ビジネスナレッジの大衆化は意味があるのか?がだいぶ疑問です。結局、ロジカルシンキングにしても、いわゆるフレームワークにしても、大衆化して普及したはずですが、結局しっかり使えている人は、ほぼおらず、かえって混乱をもたらしているようにも思います。
それは、当然、街角の研修商売をやっている人がそもそも企画なんてしていないという大きな問題があります。わかってない人が教えても、教えられない。わかっている人でも、大事なところは教えるのはなかなか難しい。受け手側の問題もあります。
そして、そもそも企画業務に携わる人は少数派ですし。何かを考えることを求められる人は非常に少なく、たいていはオペレーションレベルしか求められません。「改善」は確かに企画的な側面もあり、ちょっと変えるレベルのことも大事は大事ですが、当人たちが思うほどインパクトはない。
でも、企画をやりたい!とか言う若い人は多くて。ただ、経験量がないとそもそも考える、直感的に新しいことを発想することさえも難しくて。とは思います。
が、本当に企画するということを考えた時に、それはどんなことなのか?ということについていくつかTwitterでポストしました。受け取る側に要求するものが多い内容ではありますが、見てみましょう。
①人は行為にたいする意味合いでそもそも世界を見ている。ただ、その意味合いは必ずしも言葉ではない。かつ、その意味合いの言語化に人は必ずしも意識的ではなく、言語化は言語を操る能力が高くなければできない。
②人は言葉を見たとしても、その指し示す意味あいを読み取ることは、必ずしもできない。その行為の経験がなければ、それはなおさらである。
③更に人は言葉に囚われて、気づかないうちに自分の行為を縛ってしまうことがある。女言葉を使ったりすることによって、身体的な差異以上に女が作られることもある。
④行為による意味合い以上に言葉に囚われて、意味合いの言語化ができなくなっている場合も多々ある。というか、ほとんどのビジネスパーソンは企業の未来の行為に対する意味合いで環境を見られていない。
⑤行為の経験を積み、かつ言語化の技術を高めていかなければ、未来の行為に対する意味合いで環境を見られるようにはならない。この環境を見て意味合いを知覚し、言語化することがほぼビジネスにおいて考えるということに等しい。
⑥では、その未来の行為はどう考えるのか?というと、たいていはアナロジーであったりする。ただ、その時、名付けとその概念規定によって、新しい行為であることの主張をすることで、アナロジーを越えた新しい概念として認めさせる。この時の主張はある種の権力闘争的である。
⑦その権力闘争に勝つことで、その新しい行為は名前と概念範囲を獲得し、実行へと移される。闘争への勝利の度合いが強ければ強いほど、実行可能性は高まる。
多分、読んでさらさら意味が入ってくる人は、普段企画して、実行まで導くようなことをやっている人ですね。そういう人には学びはない内容です。わからんけど、何が学べる?これはどんなことだろう?と考えると意味があると思います。
さて、解説です。そもそも、世界を人は「客観的」には見ていないことはわかりますよね。何で見るのか。「行為への意味合いで見ている」と思います。どういうことか。
真面目に説明すると、いくつかの要素を言わなくてはいけないので、言ってみることを試みます。
自分が見ている何かと関わって行為するとして、ということへの意味合いで環境を見ます。それは言語化しなくてもそうですね。ゲシュタルトという知覚に関わる能力が人間には備わっていると言われますが、それだけでなく、関わって行為することへの意味合いで環境を見る。
すごく品のないことを言うと、中学生は女子を見ると、セックスするとすると?という意味合いで見るでしょう。自分が彼女とできるかどうか?が大きな問題で、その上で関わりがあります。
言語化するとかえってぎこちなくなったりして緊張してしまったりしますけどね。
いわゆるファクトをネタにして、人はいろんなことを言います。新聞記事からファクトだけを抽出してみると、その人が織り込んでいる意味合いがより鮮明に見えてきたりしますね。
そういうのを「主観的」だという批判もあり、ファクトだけを並べるのが価値なんだ!と言ったりする人もいます。ただ、ファクトがいつでも使える状況があることはいいことかもしれませんが、どういう行為をサポートし得るのか?という意味合いがないと、いくらファクトがあっても、世界は何も変わりません。
未来の世界を変えるために、人が行為をする。どう行為するか?を考えるのが企画です。だから、行為に対する意味合いで世界をそもそも見ているということは、素直にやりたいこと、やろうとイメージしていることがあれば、それをサポートし、どうやるか?というところから物事は見えます。
ただ、当然ビジネスにおいては、利回りがないとサステイナブルではないという制約条件がつきますから、やりたくても「ビジネス」としてはやれないこともありますね。そのためにフィージビリティスタディーがあったりするのです。
ただ、その意味合いを言語化、意識化してみましょう、というと、途端にできなくなる。自分がファクトに見ている意味合いが、言葉にできない。当人にはそう見えるものが「客観的」という思いもあるでしょうから、それが自分の「未来の行為」からの意味合いとしての風景だということは、なかなか了解しづらい。
こういう時に有用な質問は、もしも、「自分がいないとしたら」という質問です。あんまりやりすぎると無気力になるのですが、そういうことを考えてみると、世界がいろんな意味合いで見えてきたりします。もしくは意味合いの薄い世界が見えるかもしれません。
これ、やりすぎると気力がわかなくなってくるので、気力がなくなってきたら「天上天下唯我独尊」ぐらいを言ってバランスを取っておきましょうね。
こういう、自分が普段見えているものが、「意味合い」が織り込み済みだということがわかってくると、いろんな「行為」をゴールにして考える、ということができるようになってきます。
結局、いろんな行為に対する意味合いで内部、外部の環境をみて、それを書くのが企画です。
ここまで書いてて、書ききれないと思い始めました・・・。まだ、①についてしか書いてませんね・・・。多分、ここまでの情報量でも大変だとは思いますので、今日はこのあたりで。
さて、今日も仕事するぞー。では、次回をお楽しみに。
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