新聞やニュースで卒後3年間新卒扱いというのが、少し前に話題になりました。
が、まじめにその報告書(100枚ぐらいあります・・・)を読むと、本質的には、それはオマケ的な話です。報告書は↓です。
大学教育の分野別質保証の在り方について
http://www.scj.go.jp/ja/info/kohyo/pdf/kohyo-21-k100-1.pdf
で、読んだ感想としては、「うーむ」、です。本質的なことは、まともな識者の方はがいろいろ論じているので、私は論じません。
最近、教育とか、労働とかそのあたりの専門書を仕事がらみで読むのですが、やたらとハンナアレントを引いていて、へー、と思っていたのですが、この報告書でもアレントの「人間の条件」の文言が引いてあります。
で、今日はアレントについて考えてみます。
「アレント」って誰?と思う人も多いですが、元々は哲学を勉強していた人ですが、「政治哲学」をやっていた人です。政治とは何か?みたいなことを考え続けた人です。有名な言葉で言うと、「思考停止」という言葉を作った人だと思います。
なんで哲学をやっていたのに、政治哲学になったか?と言いますと、ナチスドイツ政権下で暮らしていたユダヤ人だったから、でしょうね・・・。ドイツからは逃げ、最終的には米国で暮らし、ほぼ寿命でなくなりました。心臓発作だったと記憶しています。
それで、彼女はハイデガーの弟子だったということもあるのか、政治の系譜学というか、そういう研究をしています。そして、ハイデガー同様、やたらと古代ギリシアに触れます。
これは、国民国家の政治を考える上では自然ではあります。そもそも、国民国家が範としている政治形態がギリシアの都市国家における政治、いわゆる市民による政治だから、ですね。
その市民というのは、リベラルアーツを身につけた人、ということで、教育ともからんできます。面倒ですね。
それで、報告書では、リベラルアーツ教育は、市民たるための教育、職業的レバランスではない、という話をしています。それで、アレントを引いたりしているのですが、それって、そんなに簡単じゃないよね、と私は思います。
アレント的に言うと、リベラルアーツは「仕事」の職業的レバランスを有しているけど、「労働」の職業的レバランスを有していない、のではないかな、と思います。
仕事と労働って違うの?と思うでしょう。アレント的には違います。
アレント的には、古代ギリシアで、奴隷がやっていたのが労働です。いわゆる身の回りの世話仕事、雑用仕事、単純仕事です。仕事は自由市民がやっていた仕事です。いわゆるインテリや職人がやるような専門的なお仕事です。
いわゆる、ホワイトカラーとブルーカラーの区分けとは少し違いますね・・・。そこがポイントです。
アレントに言わせると、こういった元々違うものを、マルクスが労働の名のもとに統合した、それは間違いだ、とのことです。
職に貴賎はない!が大義名分ですが、私はいろいろと、アレントの言う「労働的」な仕事関連のお仕事に関わって思いましたが、やっぱり違うんじゃないかな、と。
建前として貴賎はないって言っても、「労働」に自己実現なんてあるの?といったことを思ったりしました。そして、その職についている人たちも、そういう意識はあるのがまた面倒なポイントだと思います・・・。
アレント的に言えば、リベラルアーツは、ギリシア市民が市民の仕事につくベースではあります。バルバロイとは全く関係がありませんが・・・。
なので、もろに「仕事的仕事」をしている人が、「全ての人が仕事で自己実現を!」と言ったりすると凍るし、「全ての人にマッチした仕事があるはずです!」と言ったりすると凍るし、「リベラルアーツに職業的レバランスはない」と言ったりすると凍ってしまいます。
そんなに簡単じゃないでしょ、と思うんですね。
制度設計をするような人は、みんな仕事的仕事をしている人です。そういう意味ではギリシア時代と変わってないと言えば変わってないのかもしれません・・・。
それではまた。次回をお楽しみに。
が、まじめにその報告書(100枚ぐらいあります・・・)を読むと、本質的には、それはオマケ的な話です。報告書は↓です。
大学教育の分野別質保証の在り方について
http://www.scj.go.jp/ja/info/kohyo/pdf/kohyo-21-k100-1.pdf
で、読んだ感想としては、「うーむ」、です。本質的なことは、まともな識者の方はがいろいろ論じているので、私は論じません。
最近、教育とか、労働とかそのあたりの専門書を仕事がらみで読むのですが、やたらとハンナアレントを引いていて、へー、と思っていたのですが、この報告書でもアレントの「人間の条件」の文言が引いてあります。
で、今日はアレントについて考えてみます。
「アレント」って誰?と思う人も多いですが、元々は哲学を勉強していた人ですが、「政治哲学」をやっていた人です。政治とは何か?みたいなことを考え続けた人です。有名な言葉で言うと、「思考停止」という言葉を作った人だと思います。
なんで哲学をやっていたのに、政治哲学になったか?と言いますと、ナチスドイツ政権下で暮らしていたユダヤ人だったから、でしょうね・・・。ドイツからは逃げ、最終的には米国で暮らし、ほぼ寿命でなくなりました。心臓発作だったと記憶しています。
それで、彼女はハイデガーの弟子だったということもあるのか、政治の系譜学というか、そういう研究をしています。そして、ハイデガー同様、やたらと古代ギリシアに触れます。
これは、国民国家の政治を考える上では自然ではあります。そもそも、国民国家が範としている政治形態がギリシアの都市国家における政治、いわゆる市民による政治だから、ですね。
その市民というのは、リベラルアーツを身につけた人、ということで、教育ともからんできます。面倒ですね。
それで、報告書では、リベラルアーツ教育は、市民たるための教育、職業的レバランスではない、という話をしています。それで、アレントを引いたりしているのですが、それって、そんなに簡単じゃないよね、と私は思います。
アレント的に言うと、リベラルアーツは「仕事」の職業的レバランスを有しているけど、「労働」の職業的レバランスを有していない、のではないかな、と思います。
仕事と労働って違うの?と思うでしょう。アレント的には違います。
アレント的には、古代ギリシアで、奴隷がやっていたのが労働です。いわゆる身の回りの世話仕事、雑用仕事、単純仕事です。仕事は自由市民がやっていた仕事です。いわゆるインテリや職人がやるような専門的なお仕事です。
いわゆる、ホワイトカラーとブルーカラーの区分けとは少し違いますね・・・。そこがポイントです。
アレントに言わせると、こういった元々違うものを、マルクスが労働の名のもとに統合した、それは間違いだ、とのことです。
職に貴賎はない!が大義名分ですが、私はいろいろと、アレントの言う「労働的」な仕事関連のお仕事に関わって思いましたが、やっぱり違うんじゃないかな、と。
建前として貴賎はないって言っても、「労働」に自己実現なんてあるの?といったことを思ったりしました。そして、その職についている人たちも、そういう意識はあるのがまた面倒なポイントだと思います・・・。
アレント的に言えば、リベラルアーツは、ギリシア市民が市民の仕事につくベースではあります。バルバロイとは全く関係がありませんが・・・。
なので、もろに「仕事的仕事」をしている人が、「全ての人が仕事で自己実現を!」と言ったりすると凍るし、「全ての人にマッチした仕事があるはずです!」と言ったりすると凍るし、「リベラルアーツに職業的レバランスはない」と言ったりすると凍ってしまいます。
そんなに簡単じゃないでしょ、と思うんですね。
制度設計をするような人は、みんな仕事的仕事をしている人です。そういう意味ではギリシア時代と変わってないと言えば変わってないのかもしれません・・・。
それではまた。次回をお楽しみに。
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