しつこいですが、しばらくこの本の解説を試みます。
P16~17:「諸言語の意味論的規約としての論理学」
ここは非常にわかりにくい部分ですね。じっくり見ていきます。
全体としては、語用論と意味論の関係を説明しながら、「メタ言語」という概念を導入しています。
そして、メタ言語の導入後、メタの視点から日本語と英語を比較して、共通点の有無の系譜を少しだけ考える。そうすると、「人間の思考活動の共通性が、諸言語の共通性を生んだのだから、どの言語にもあてはまるような言語の記号化が可能で、それが『論理学』だ」と言い、また最後の部分ではこの文章を言い換えて「人間の思考を構造化する最も基礎的な精神作用を、諸言語に共通する最小限の意味論によって研究する学問」が論理学だと言っています。
語用論と意味論の違いだけでも難しいのに、突然メタ言語なんて言い出しやがって、余計に意味がわからんよ、とツッコミたくなりますが、我慢我慢。
おいおい、P12で言っていたのよりも、複雑な論理学の定義を断りもなく出しやがって、というツッコミがしたくなりますが、我慢我慢。
「語用論」を導入してわかりにくくしながら、論理学の主題は意味論だとか言い出しやがって、人を混乱させて楽しんでいるのか?と思うかも知れませんが、我慢我慢。
まず、語用論は主体がある言葉をどのような文脈の中でしゃべっているのか?などが問題になります。例えば、「私の娘は男です」という文は短文で見ると、矛盾していますが、会話の中で矛盾していないで使われるとするとどうなるか?
「私の娘に赤ちゃんが生まれて、女の子なんだけど、お宅の娘さんのお子さんは男でしたっけ?女でしたっけ?」と聞いたとすると、「私の娘は男です」と言うのも可能ですね。
文の意味は文の前後関係にも規定されますし、発話主体の想定している時間的前後関係にも規定されます。これが語用論のポイントです。そして、必ずしもロジカルではないですが、好意的にロジカルにとってあげようという原則もあります。
しかし、この文は意味論でも捉えられます。文と事実の総和としての世界の対応は、「私の娘は男です」という文章でも、指し示す事実は「娘の赤ちゃんが男である」ということです。文は世界との対応関係がある。
しかし、メタ言語は、世界の事実と対応しているとは言いにくい。メタ言語とは「文を説明する文」だと思っておいてください。
本の中では、いくつかの例とともに、「「恐竜」は日本語である」という例が出ています。この例で行くと、概念としての「日本語」を具体的にイメージするのって、難しいですよね。他の言語との比較の中で、日本語をイメージすることはできなくはないですが、個別具体のシーンで日本語を規定するのは難しい。日本語という言葉が指し示す世界の事実は1つで対応できるわけではないですね。
意味論的には言葉は現実世界の事実を指す「記号」だと言えることをずっと説明してきたわけですが、その記号を指す記号もあるのです。記号の記号。それが、メタ言語ですね。
P17に入ると抽象語が炸裂して意味不明だと思うかも知れませんが、読解します。
まず、「意味論的規約」というのがいきなり出てきます。これは意味論に関わる決まり事とでも読んでください。
そして、その意味論的規約は「制度」に依存するとあります。これはおそらく、各言語における体系とでも読めばいいと思います。
やさしく言うと、「意味論の決まり事は各言語の決まりによって違うはずだよね」と言っています。まあ、そりゃそうだよなあ、としか言いようがないですが。日本語で書かれた文章がどういうルールで何を指し示すかの「指し示し方」は日本語に依存するだろうし、英語で書かれた文章がどういうルールで何を指し示すかの指し示し方は英語に依存します。
言語によって、単語も違うし、文法も違いますからね。
と言っておきながら、著者は共通部分、類似点が浮かび上がる!とも言います。まあ、そりゃそうだろ、人類だし。英語と日本語の間ではほとんどの表現は翻訳できるだろうし。
そして、「推論」という活動は人類に共通するだろう、と興奮気味に言っています。
で、最後の文「論理学とは、人間の思考を構造化する最も基礎的な精神作用を、諸言語に共通する最小限の意味論によって研究する学問」という論理学の新たな定義に結びつけています。
ちょっとわかりにくいですね・・・。
P17~19:自然言語と論理言語
ここでもまた、論理学の定義が2回ほど違った形で提示されます。内容としては繰り返しになるようなことしか言っていませんが、ここでまた新しい言葉が出てきます、仮想言語、人工人口記号、人工記号言語といった言葉です。これまで言ってきたことにこういった言葉を重ねることで論理学を新たに輪郭付けようとしています。
まず、P13で出て来た2つの三段論法がありましたね。それを引き合いに出して、日本語の意味論的決まり事が何を指し示そうとも、形式的にはこの2つの三段論法は真である、と言っています。
そして、「いろいろな意味論を持つあらゆる言語に共通する最大公約数的な構造を抽象化する学問だ」と言ってます。
数学の等式変形はどんな国に行っても、あの形で通用するのに、似ていることが言いたいんだと思います。
そして、その後の数行では、意味論的に、言語と世界の対応が言われていて、世界が変われば、偽の命題も真になったりするよね、ということが書かれています。
その上で、世界がどう変わろうと、形式的に正しい証明ってあるよね、と言っています。
そして、「言語がどのようなものであろうと、世界で何が起こっていようと、確実に成り立つ命題の真偽の組み合わせのパターンを体系化するのが論理学だ」と言っています。
なぜ、こんなに面倒な断りを著者がずっと入れているかと言いますと、論理学では論理記号という数式っぽいものを使ったりするのですが、それが必要だと言うためですね。
論理学で使う論理記号は、日本語や英語などの固有の言語を越えた決まり事として、各言語固有のルールをとっぱらい、共通する論理要素だけを表記するための「人工の」言語なんですね。
それを、人工記号言語とか言っているわけです。論理学内部の言語から見れば、日本語で論理学の人工言語を解説することは、メタ言語による解説というふうになるよね、と言っています。
ぐらいでしょうか。
これぐらいガイドラインがあれば、第1節はわかるだろうと思います。で、ようやく命題の真偽の話に次の節から入っていくわけです・・・。
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P16~17:「諸言語の意味論的規約としての論理学」
ここは非常にわかりにくい部分ですね。じっくり見ていきます。
全体としては、語用論と意味論の関係を説明しながら、「メタ言語」という概念を導入しています。
そして、メタ言語の導入後、メタの視点から日本語と英語を比較して、共通点の有無の系譜を少しだけ考える。そうすると、「人間の思考活動の共通性が、諸言語の共通性を生んだのだから、どの言語にもあてはまるような言語の記号化が可能で、それが『論理学』だ」と言い、また最後の部分ではこの文章を言い換えて「人間の思考を構造化する最も基礎的な精神作用を、諸言語に共通する最小限の意味論によって研究する学問」が論理学だと言っています。
語用論と意味論の違いだけでも難しいのに、突然メタ言語なんて言い出しやがって、余計に意味がわからんよ、とツッコミたくなりますが、我慢我慢。
おいおい、P12で言っていたのよりも、複雑な論理学の定義を断りもなく出しやがって、というツッコミがしたくなりますが、我慢我慢。
「語用論」を導入してわかりにくくしながら、論理学の主題は意味論だとか言い出しやがって、人を混乱させて楽しんでいるのか?と思うかも知れませんが、我慢我慢。
まず、語用論は主体がある言葉をどのような文脈の中でしゃべっているのか?などが問題になります。例えば、「私の娘は男です」という文は短文で見ると、矛盾していますが、会話の中で矛盾していないで使われるとするとどうなるか?
「私の娘に赤ちゃんが生まれて、女の子なんだけど、お宅の娘さんのお子さんは男でしたっけ?女でしたっけ?」と聞いたとすると、「私の娘は男です」と言うのも可能ですね。
文の意味は文の前後関係にも規定されますし、発話主体の想定している時間的前後関係にも規定されます。これが語用論のポイントです。そして、必ずしもロジカルではないですが、好意的にロジカルにとってあげようという原則もあります。
しかし、この文は意味論でも捉えられます。文と事実の総和としての世界の対応は、「私の娘は男です」という文章でも、指し示す事実は「娘の赤ちゃんが男である」ということです。文は世界との対応関係がある。
しかし、メタ言語は、世界の事実と対応しているとは言いにくい。メタ言語とは「文を説明する文」だと思っておいてください。
本の中では、いくつかの例とともに、「「恐竜」は日本語である」という例が出ています。この例で行くと、概念としての「日本語」を具体的にイメージするのって、難しいですよね。他の言語との比較の中で、日本語をイメージすることはできなくはないですが、個別具体のシーンで日本語を規定するのは難しい。日本語という言葉が指し示す世界の事実は1つで対応できるわけではないですね。
意味論的には言葉は現実世界の事実を指す「記号」だと言えることをずっと説明してきたわけですが、その記号を指す記号もあるのです。記号の記号。それが、メタ言語ですね。
P17に入ると抽象語が炸裂して意味不明だと思うかも知れませんが、読解します。
まず、「意味論的規約」というのがいきなり出てきます。これは意味論に関わる決まり事とでも読んでください。
そして、その意味論的規約は「制度」に依存するとあります。これはおそらく、各言語における体系とでも読めばいいと思います。
やさしく言うと、「意味論の決まり事は各言語の決まりによって違うはずだよね」と言っています。まあ、そりゃそうだよなあ、としか言いようがないですが。日本語で書かれた文章がどういうルールで何を指し示すかの「指し示し方」は日本語に依存するだろうし、英語で書かれた文章がどういうルールで何を指し示すかの指し示し方は英語に依存します。
言語によって、単語も違うし、文法も違いますからね。
と言っておきながら、著者は共通部分、類似点が浮かび上がる!とも言います。まあ、そりゃそうだろ、人類だし。英語と日本語の間ではほとんどの表現は翻訳できるだろうし。
そして、「推論」という活動は人類に共通するだろう、と興奮気味に言っています。
で、最後の文「論理学とは、人間の思考を構造化する最も基礎的な精神作用を、諸言語に共通する最小限の意味論によって研究する学問」という論理学の新たな定義に結びつけています。
ちょっとわかりにくいですね・・・。
P17~19:自然言語と論理言語
ここでもまた、論理学の定義が2回ほど違った形で提示されます。内容としては繰り返しになるようなことしか言っていませんが、ここでまた新しい言葉が出てきます、仮想言語、人工人口記号、人工記号言語といった言葉です。これまで言ってきたことにこういった言葉を重ねることで論理学を新たに輪郭付けようとしています。
まず、P13で出て来た2つの三段論法がありましたね。それを引き合いに出して、日本語の意味論的決まり事が何を指し示そうとも、形式的にはこの2つの三段論法は真である、と言っています。
そして、「いろいろな意味論を持つあらゆる言語に共通する最大公約数的な構造を抽象化する学問だ」と言ってます。
数学の等式変形はどんな国に行っても、あの形で通用するのに、似ていることが言いたいんだと思います。
そして、その後の数行では、意味論的に、言語と世界の対応が言われていて、世界が変われば、偽の命題も真になったりするよね、ということが書かれています。
その上で、世界がどう変わろうと、形式的に正しい証明ってあるよね、と言っています。
そして、「言語がどのようなものであろうと、世界で何が起こっていようと、確実に成り立つ命題の真偽の組み合わせのパターンを体系化するのが論理学だ」と言っています。
なぜ、こんなに面倒な断りを著者がずっと入れているかと言いますと、論理学では論理記号という数式っぽいものを使ったりするのですが、それが必要だと言うためですね。
論理学で使う論理記号は、日本語や英語などの固有の言語を越えた決まり事として、各言語固有のルールをとっぱらい、共通する論理要素だけを表記するための「人工の」言語なんですね。
それを、人工記号言語とか言っているわけです。論理学内部の言語から見れば、日本語で論理学の人工言語を解説することは、メタ言語による解説というふうになるよね、と言っています。
ぐらいでしょうか。
これぐらいガイドラインがあれば、第1節はわかるだろうと思います。で、ようやく命題の真偽の話に次の節から入っていくわけです・・・。
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