こんにちは。伊藤です。
昨日の夜は全く眠れなくて、読書をしていました。そのうちの一冊ではありますが、この本には衝撃を受けました。なので、感想を書ききれるかわからないので、何回かに渡って書いていこうと思います。
まず、この本のテーマが今の私の関心事項に非常に近い。人間が分子機械に過ぎないとして、新たな倫理の構築はあるのか?という問いですが、この本は著者の経験から、現在の日本の状況を出発点にして、神とは関係のない倫理の構築を目指しています。
表紙には「何をしてもいいのに、何もすることがない。だから、没頭したい、打ち込みたい・・・。でも、ほんとうに大切なのは、自分らしく自分のルールを見つけること」とあります。
でね、この本の感想を書こうとしたのですが、ちょっと一筋縄ではいきそうにありません。一応、参考文献に当たりながらやろうとすると、膨大な時間がかかる。そんな暇ないよ・・・、と思いつつ、それぐらいの覚悟で感想を書こうと思います。
この本のテーマは、多くの人に「暇」が与えられ、多くの人が「退屈」している中で、いかに生きるべきか?です。倫理=いかに生きるべきか?ですからね。
でね、この本で提供されているフレームワークは現代の分析には非常に有用だと思います。ただ、著者の構想は壮大で、言及する内容は多岐に渡るので、それを1つずつ追っていくとすごいことになる。
おそらく、ゼミを何年もやって、講義録が相当あるんではないかな、と思うのですが・・・。
でね、とりあえず、目次を眺めてみましょう。
序章: 好きなこととは何か
第一章:暇と退屈の原理論 うさぎ狩りに行く人は本当は何が欲しいのか?
第二章:暇と退屈の系譜学 人間はいつから退屈しているのか?
第三章:暇と退屈の経済史 なぜ”ひまじん”が尊敬されていたのか?
第四章:暇と退屈の疎外論 贅沢とは何か?
第五章:暇と退屈の哲学 そもそも退屈とは何か?
第六章:暇と退屈の人間論 トカゲの世界をのぞくことは可能か?
第七章:暇と退屈の倫理学 決断することは人間の証か?
です。壮大です。
でね、序章では、「好きなことって本当に主体的に選び取っているの?」という問題が提起されます。これ、まさに日々大学生が言っている「やりたいこと」に通じるお話です。で、そんなもんは仕掛けられてるでしょう、というのが結論ですが。
で、この身近な問いを資本主義社会全体について、拡張して論じる構図を著者は示します。
資本主義社会で労働者の「暇」は狙われている、と。その「暇」が狙われることで、上記のような現象も起きているのではないか、と。文化産業や娯楽産業が労働者の「暇」に付け込んで、あたかもやりたかったことのようなことを仕立て上げ、労働者は暇な時間にそれを消費する。
この構造に無自覚であるならば、単に搾取されているだけで、なんとなく暇な感覚からは解放されないし、幸せではないでしょう、と。
では「暇の中でいかに生きるべきか?退屈とどう向き合うべきか?」
この問いは何も現代特有の問いではなく、資本主義社会が浸透してきた頃からある問いで、古くもあり、新しくもある問いであることが提示されます。ルソー、ラッセル、モリスなどが引き合いに出されます。
古くからあるのに、解決されていないとも言えるわけです。この本はこの問いの解決を試みているのです。
ただ、退屈しているからといって、イスラム原理主義者のような狂信がいいと言うと、極端だし、そういう意味でのハイデガーの退屈論の中での一応の結論である「決断」と言うのも、安易すぎるのではないか?と著者は思っています。
この古くも新しい、つまり、誰も解決できていない問いに答えるための壮大な旅が始まる、といった感じです。
これだけでもおなかいっぱいですが、次回は第一章を細かく見て行けたら、見て行きたいと思っています。それでは次回をお楽しみに。
昨日の夜は全く眠れなくて、読書をしていました。そのうちの一冊ではありますが、この本には衝撃を受けました。なので、感想を書ききれるかわからないので、何回かに渡って書いていこうと思います。
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まず、この本のテーマが今の私の関心事項に非常に近い。人間が分子機械に過ぎないとして、新たな倫理の構築はあるのか?という問いですが、この本は著者の経験から、現在の日本の状況を出発点にして、神とは関係のない倫理の構築を目指しています。
表紙には「何をしてもいいのに、何もすることがない。だから、没頭したい、打ち込みたい・・・。でも、ほんとうに大切なのは、自分らしく自分のルールを見つけること」とあります。
でね、この本の感想を書こうとしたのですが、ちょっと一筋縄ではいきそうにありません。一応、参考文献に当たりながらやろうとすると、膨大な時間がかかる。そんな暇ないよ・・・、と思いつつ、それぐらいの覚悟で感想を書こうと思います。
この本のテーマは、多くの人に「暇」が与えられ、多くの人が「退屈」している中で、いかに生きるべきか?です。倫理=いかに生きるべきか?ですからね。
でね、この本で提供されているフレームワークは現代の分析には非常に有用だと思います。ただ、著者の構想は壮大で、言及する内容は多岐に渡るので、それを1つずつ追っていくとすごいことになる。
おそらく、ゼミを何年もやって、講義録が相当あるんではないかな、と思うのですが・・・。
でね、とりあえず、目次を眺めてみましょう。
序章: 好きなこととは何か
第一章:暇と退屈の原理論 うさぎ狩りに行く人は本当は何が欲しいのか?
第二章:暇と退屈の系譜学 人間はいつから退屈しているのか?
第三章:暇と退屈の経済史 なぜ”ひまじん”が尊敬されていたのか?
第四章:暇と退屈の疎外論 贅沢とは何か?
第五章:暇と退屈の哲学 そもそも退屈とは何か?
第六章:暇と退屈の人間論 トカゲの世界をのぞくことは可能か?
第七章:暇と退屈の倫理学 決断することは人間の証か?
です。壮大です。
でね、序章では、「好きなことって本当に主体的に選び取っているの?」という問題が提起されます。これ、まさに日々大学生が言っている「やりたいこと」に通じるお話です。で、そんなもんは仕掛けられてるでしょう、というのが結論ですが。
で、この身近な問いを資本主義社会全体について、拡張して論じる構図を著者は示します。
資本主義社会で労働者の「暇」は狙われている、と。その「暇」が狙われることで、上記のような現象も起きているのではないか、と。文化産業や娯楽産業が労働者の「暇」に付け込んで、あたかもやりたかったことのようなことを仕立て上げ、労働者は暇な時間にそれを消費する。
この構造に無自覚であるならば、単に搾取されているだけで、なんとなく暇な感覚からは解放されないし、幸せではないでしょう、と。
では「暇の中でいかに生きるべきか?退屈とどう向き合うべきか?」
この問いは何も現代特有の問いではなく、資本主義社会が浸透してきた頃からある問いで、古くもあり、新しくもある問いであることが提示されます。ルソー、ラッセル、モリスなどが引き合いに出されます。
古くからあるのに、解決されていないとも言えるわけです。この本はこの問いの解決を試みているのです。
ただ、退屈しているからといって、イスラム原理主義者のような狂信がいいと言うと、極端だし、そういう意味でのハイデガーの退屈論の中での一応の結論である「決断」と言うのも、安易すぎるのではないか?と著者は思っています。
この古くも新しい、つまり、誰も解決できていない問いに答えるための壮大な旅が始まる、といった感じです。
これだけでもおなかいっぱいですが、次回は第一章を細かく見て行けたら、見て行きたいと思っています。それでは次回をお楽しみに。
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