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 こんにちは。伊藤です。今日は暇と退屈の倫理学、第四回です。日があいてすいません・・・。

 
暇と退屈の倫理学暇と退屈の倫理学
(2011/10/18)
國分 功一郎

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 さて、第三章は「暇と退屈の経済史」です。なぜ、暇人が尊敬されていたのか?というサブタイトルになっております。ただ、ちょっと読み込むのが難しかったです。

 順番に見ていきましょう。

 著者はまず、「暇と退屈ってどう違うの?」という疑問を発します。現代において、時にこれらは混同される、と。

 これに対して、暇は客観的条件、退屈は主観的状態といいます。

 で、暇だから退屈するというロジックは本当にそうなのか?という問いが出てきます。暇でも退屈しなければ、問題は発生しない。でも、現代はどういう時代かと言えば、暇と退屈が混同される時代ですから、暇だから退屈するというロジックがまかり通っていることになります。

 この問いに対する解を出すために、著者はウェブレン(1857-1929)を引き合いに出します。「有閑階級の理論」を書いたウェブレンです。

 まず、ウェブレンの「顕示的閑暇」という概念の説明から入ります。

 この概念は、「見せびらかすための暇」ぐらいの意味です。これはつまり、暇というのは、その昔、みせびらかすためのものだった、ということを言っているのです。

 暇は、何もしなくても食えることの象徴です。食うことに必死であれば、暇になんかならない。確かにそうです。だから、「俺はなんて暇なんだ!」というのは、「俺はなんてカネがあるんだ!」と言っているのと同じですね。

 そして、この階級は、暇との付き合い方を知っていたとウェブレンは言っている、と。

 これが、ここでのインサイトです。もしも、暇でも退屈しない方法が過去にあったのならば、それを知れば、暇な現代に退屈せずに済みますからね。しかし、著者はウェブレンの主張全体には懐疑的です。

 著者によれば、ウェブレンは、浪費が大嫌いだったとのことです。現実的な機能、有効と効率が大好きだ、と。だから、モリスのようなアーツアンドクラフト運動は好まなかった、と。

 まあ、そりゃそうでしょ、ピューリタンなんだから、と私は思いますけどね。ピューリタンってあれですよ。予定説ですよ。カルヴァン派ですよ。

 来世で神の国に行けるか否かは、決まっている。そして、それは目の前に現れているものでわかる。それは利益だ!と。ピューリタンは死後に救われるために、必死で利益を出そうとするでしょう。そこに非効率的な美なんていらんと言うでしょう・・・。

 で、著者は次にラファルグを引いてきます。これも批判的に引いてきます。

 ラファルグは「労働を賛美することは資本家の利益になってしまうことだから、よろしくない」という主張をした、と。まあ、一見一理あります。

 で、ラファルグは怠ける権利を主張するのですが、ここを著者は批判します。労働を避けて、余暇に逃げ込むことすら、資本家の利益になりうるのではないか?と。著者はこの問いを出すためだけにラファルグを引いている感じですね。

 その上で、有名なヘンリー・フォードのフォーディズムの説明に入ります。そうです、あのフォードです。マーケティングのケースで必ず出てくるフォード。

 もともと、お肉屋さんで使われていたベルトコンベアを自動車の生産ラインに組み込んで大成功。いわゆる、生産指向コンセプトのマーケティングというやつです。作れば作るほど売れる、的なやつですね。

 それで、フォードを引く理由は、先ほどの問い「余暇に逃げ込むことすら資本家の利益になりうる」ということへの答えを出すためです。

 フォーディズムでは、高い給料で労働者を雇い、しっかりと労働者を休ませることで、生産性を上げようとしました。これは、つまり、労働としての余暇である、と。

 ここで著者が言っているのは、「経営側からコントロールされる余暇」ですね。

 では、経営からコントロールされなければ、自由に余暇を過ごせるではないか!と思うかもしれません。しかし、暇であったことがない人々は、暇の正しい過ごし方を知らない。

 すると、また余暇はコントロールにさらされる。誰にコントロールされるかというと、余暇産業にコントロールされるわけです。

 この種の「コントロールされる余暇」として、著者はガルブレイズ(1908-2006)を引いています。ガルブレイズの主張によれば、何がコントロールされるか?というと、「欲しいモノ」が売り手によってコントロールされる。

 まあ、この広告がまき散らされている社会を見れば、自分が主体的に選んでいるなんてまさか思わないと私は思うのですが、意外と自分が主体的に行動していると思い込んでいる人は多いですね・・・。

 ガルブレイズも著者も「消費者主権」を無邪気に信じている人に否定的です・・・。まあ、確かに、めでたいと思います。「自分の天職はこれなんだ!」「自分の軸はこれだ!」とか言っている大学生を見ると、「ご愁傷様」と思います。

 そして、著者はガルブレイズの大枠に賛成しつつ、一部、「新しい階級」という概念を批判します。ガルブレイズの言う新しい階級とは「労働が楽しい」という人々です。その階級は労働社会でいい給料をもらうなどの一定の地位を占める、と。医者の息子はちゃんと医者になって、やりがいを感じる、と。医者の息子は配管工になって、家族を悲しませたりしない、と。

 ここまで来るとちょっと変だとは思うでしょう。無邪気にこの新しい階級を礼賛できない。別に医者の息子が配管工になろうがかまわんと思いますよね。それを否とするのはただの「差別」です。

 この新しい階級の中では、働くことが楽しいという「強迫観念」が発生すると著者は指摘しています。

 ただ、現在の日本ではこういう風潮になってきているんじゃないかなあ、と私は思います。働き甲斐とか、やりがいとか、就職メディアの煽りのメッセージには辟易しますが、親は子供が安定した高給の職業につくと安心し、誰も知らないような会社に就職すると悲しむ。これって、まさにそうですよね。

 時に強迫観念的にすらなっているというのも、現代の日本でもあてはまると思います。

 話をもとに戻しましょう。それでね、著者は更に、ポストフォーディズムについて言及します。大量消費社会が終わって、多品種少量生産の時代に入っていますね。大量生産時代には、機械が人の代わりをして、機械が人の仕事を奪う、なんて言われましたが、ポストフォーディズムではそうではない。

 機械化による大量生産ができなくなったので、人が機械のように働くことを求められるようになった、と。人が機械の代わりをしている、と。

 これ、面白いですね。確かにそれはそうだなあ、と。ただ、著者はこの章ではここをあんまりまとめていません。次に持越しです。

 ちょっとだけ、まとめると、ここで言っているのは、「現代の余暇はコントロールされている」、ということです。

 広告メッセージによって、消費行動がコントロールされる。で、その消費行動には余暇の消費も含まれる。かつ、経営側も、その余暇を労働効率の上昇という視点でコントロールする。また、そのコントロールされた消費行動によって、生産がコントロールされている、と。

 ただ、コントロールされた消費行動と言うのは、1つの企業が決めうるのではなく、不特定多数の企業が不特定多数のメッセージを発しているから、1元的にはならず、大量生産、大量消費が崩壊しているのだろうなあ、と思いました。

 前半のウェブレン批判では、暇であっても退屈しないという可能性が提示されて、少し希望が持てるのですが、後半で、現代の暇と言うのは、すごいコントロールにさらされているという現実が提示されて、ちょっと怖くなります。

 でね、じゃあ、著者はなんでわざわざこの本を書いているか?というと、ウェブレンやガルブレイズの分析は浅い、と著者は思っているから、ということですね。著者は近代に暇と退屈の起源を求めていません。1,2章を読めばそれは明らかです。人間にとって、暇と退屈はもっと古い問題だ、と。

 この3章では、余暇に分析を加えた近代の学者を批判的にとりあげつつ、長いスパンで見たときに拾い上げられる部分を拾っているわけです。しかし、この章はまだ、著者にとっては予備的分析とも言うべきもので、次の章で、いよいよ現代の社会を分析に入るわけです。

 次の章では、いよいよ、社会学では知らない人がいないボードリヤールが登場します。

 この章までは、本当に、予備的な分析が展開されています。著者は非常に壮大なスコープで、暇と退屈を読み解こうとしています。逆に言えば、ここまで壮大なスケールでないと、最後のハイデガーの退屈論を超えられないという思いだったのだろうと思ったりもします。

 私が勝手に思うこととしては、この本の端緒としては、当然、ハイデガーの退屈論がはじめにある。その上で、それに対する批判に説得力を持たせるために、壮大な予備的分析をし、その上で現代を分析し、マルクスの「疎外」の捉えなおしをして・・・。というような、ちゃんとした構想の元になりたっています。

 前書きに書き直しをしたとあるので、書いているうちにこのように壮大に、そしてかっちりした構成になっていったのかもしれませんね。

 ちょっと駆け足ですが、第三章はこんな感じです。それでは次回をお楽しみに。

 
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2011.11.18(14:10)|書籍コメント(0)トラックバック(0)TOP↑
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