いつも通り日が開いてしまってすいません。
今日は、第四章:「暇と退屈の阻害論 贅沢とは何か?」を見ていきましょう。この章は本当にしっかり読まないと理解は難しいなあ、と思いました。
この章で、いよいよ、現代の消費社会と退屈の関係が論じられます。著者は現代の消費社会と退屈は切ってもきれない関係にあると言います。
では、どのように退屈と消費社会は切っても切れないのか?
ということを解説するのは次回にして、その前に、今日は著者のこの章での考えの構図と言うか、そういうものを見てみましょう。
著者はこの章で「疎外論」について語ります。疎外というのは、私の語感では、「あるべきを失っている状態」だったのですが、著者は疎外のその捉え方を批判しています。
そうすると、まず、「疎外」って何?ということをはっきり明確にしないといけない。
でも、なんで疎外が出てくるの?というと、著者が消費社会の批判で引いているボードリヤールが「消費社会では消費による疎外が起こっている」と言っているから、です。
著者が言っているのは、消費というのは、人間のあるべきモノとの関わり方ではない、と。モノというより、消費はコトとかかわるからこそ、疎外が起こる、という話に私には見えます。これは誤読かもしれませんが、そういうふうに読んじゃいます。
マーケティングを多少勉強した人間にとって、「え、コトの消費ってだめ?」という反応が期待されます。スターバックスで有名になった経験経済的価値もある意味でコト消費のようなもんですし、いわゆる価値の概念化という最近の出来事も、コトの消費に見えますよね。
というか、ボードリヤールの消費によって人間は疎外されているという主張は、そもそもマーケティングと言われる諸活動が人間を阻害しているといっていることにほぼ等しいので、あらゆる「消費促進活動は疎外を生んでいる」、とも言えてしまうわけです。
マーケティングを勉強している人にはショックかな、と思いますが、たくましいマーケティング関係者は、そうさ、俺はゲッペルスさ、疎外する者さ、というような開き直りもあるかもしれませんね。
さて、疎外を語っている哲学者をボードリヤールをきっかけとして見ていくんですが、ルソーから何人かの哲学者を見て、疎外を見ていきます。
一人一人興味深いし、ポイントはいろいろとあるのですが、著者は「疎外」を人間が己の能力を発揮できていない、明らかに幸せでない状態のように使っているように思います。これも、私が読めていないかもしれませんが、そう読んでおきます。
それでね、「その疎外を論じる時、人は、過去にあるべき理想があって、そこに帰ろうと言い出してしまうことが多い。それは誤りである」と著者は言っています。
その倒錯を起こしている哲学者として批判されているのは、パッペンハイムとハンナ・アレントです。
逆に誤読されているのは、ルソー、マルクスの疎外論である、と。
内容は次回に回しますが、著者の主張は、「現代の暇と退屈の解決策は、過去にヒントがあるかもしれないが、過去にあった人間の姿に帰るのは間違いだ。未来に新たな暇と退屈の倫理を打ち立てるべきだ」ということだと思います。
著者は常に未来志向でモノを語る。過去を理想化することには懐疑的です。
400万年もの遊動生活を引き合いに出したのは、そこに理想を見出すためではない。定住を始めてしまった人間はそこに帰れるわけなどありません。
また、ウェブレンの言う「有閑階級の理論」も身分格差を前提として生み出されたものですから、それが復活するのがいいと言っているわけではないです。あくまで、暇と退屈を生きるすべを知っていた人がいたかもしれない、というところで引いているわけです。
著者が長い射程をもっている理由は、ハイデガーの退屈論に立ち向かうため、といったことを書きましたが、それは過去を理想化して立ち向かうのではないのです。
著者は、あくまで過去はヒントであり、新たな倫理学の構築を目指しているわけです。
著者は、これをはっきりさせるために疎外論と本来こういうあるべき状態があったはずという考えがセットになっていることを批判せずにいられないのだと思います。
結局、過去に理想があるなどというのは、思想家として最低ではないか?と私は思います。新たな未来を作るために我々は思想している。決して、過去を美化してそこに閉じこもることを推奨する倫理学などあってはなりません。
実際に、著者が肯定的に引いているルソーやマルクスは、過去に理想があったなどと言っているわけではなく、現状を分析し、疎外のポイントを見出し、現在をしっかりと捉え、未来にはこうじゃないほうがいいね、と言っただけだということがきれいに炙り出されてきます。
で、この構図を踏まえた上で、ボードリヤールの消費社会批判と、映画、ファイトクラブについて見ていきたいのですが、それは次回のお楽しみです。
が、1つ、ルソーの分析で自己愛と利己愛という非常に重要な概念が紹介されているので、それに触れておきたいと思います。
ルソーの自然状態に関する議論の中で、自然状態と社会状態が対比されています。
自然状態において発生するのが自己愛で、社会状態において発生するのが利己愛だと言っています。どういうことか?
自然状態における自己愛は単に自己保存の衝動である、と。危険が迫れば逃げる。生きていたいから逃げる。それだけである、と。
しかし、社会状態における利己愛は他人との比較の中で、関係の中で生じる。他人との比較の中で自分を他人よりも高い位置に置きたいというものだ、と。
これね、「人が人を見下す」とか、「人が人を恨む」とか、そういう他人へのネガティブな感情が一気に説明できてしまう強力な枠組みです。社会生活を人間が営んでいるからこそ、その中で所有概念があるからこそ、その中で「権利」といった概念が万人にあるからこそ、成立します。
「他人に何かを奪われること」の自然状態と社会状態の比較が非常にわかりやすいです。
自然状態の中で他人に何かを奪われても、仕方ない、で済みます。木の実をもって移動していたらクマに出会ってそれを落とした。単に、逃げ出せばいい。それが人であり、自分より強くて、自分からそれを奪ったとて、逃げればそれでいい。
クマとヒトに差はないですね。
ただ、社会状態の中で他人に何かを奪われたら、仕方ない、では済みません。奪った他人にそんな権利はないはずであるから。こう考えると、権利という概念が社会によって生み出されたというのが非常に鮮やかにわかりますね。
他人を見下したり、他人を恨んだりしたら、それは「ああ、私って社会状態を生きているんだなあ」と実感することにすると、ちょっとは気持ち的に楽でしょうか・・・。
このルソーの分析は人間は置かれる状態によって大きく変わるもんだ、ということをすごくよく理解させてくれます。今後もおそらく人間は社会状態の中に置かれるわけですが、その中でどうすれば「暇と退屈」を幸せに生きていくことができるのか?いや、むしろどんな条件であっても「退屈」を強いてくる社会を変えていけるのか?を考えるきっかけになりますよね。
「え?どう?」というところはまた次回にいたしましょう。
それでは次回をお楽しみに。
今日は、第四章:「暇と退屈の阻害論 贅沢とは何か?」を見ていきましょう。この章は本当にしっかり読まないと理解は難しいなあ、と思いました。
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この章で、いよいよ、現代の消費社会と退屈の関係が論じられます。著者は現代の消費社会と退屈は切ってもきれない関係にあると言います。
では、どのように退屈と消費社会は切っても切れないのか?
ということを解説するのは次回にして、その前に、今日は著者のこの章での考えの構図と言うか、そういうものを見てみましょう。
著者はこの章で「疎外論」について語ります。疎外というのは、私の語感では、「あるべきを失っている状態」だったのですが、著者は疎外のその捉え方を批判しています。
そうすると、まず、「疎外」って何?ということをはっきり明確にしないといけない。
でも、なんで疎外が出てくるの?というと、著者が消費社会の批判で引いているボードリヤールが「消費社会では消費による疎外が起こっている」と言っているから、です。
著者が言っているのは、消費というのは、人間のあるべきモノとの関わり方ではない、と。モノというより、消費はコトとかかわるからこそ、疎外が起こる、という話に私には見えます。これは誤読かもしれませんが、そういうふうに読んじゃいます。
マーケティングを多少勉強した人間にとって、「え、コトの消費ってだめ?」という反応が期待されます。スターバックスで有名になった経験経済的価値もある意味でコト消費のようなもんですし、いわゆる価値の概念化という最近の出来事も、コトの消費に見えますよね。
というか、ボードリヤールの消費によって人間は疎外されているという主張は、そもそもマーケティングと言われる諸活動が人間を阻害しているといっていることにほぼ等しいので、あらゆる「消費促進活動は疎外を生んでいる」、とも言えてしまうわけです。
マーケティングを勉強している人にはショックかな、と思いますが、たくましいマーケティング関係者は、そうさ、俺はゲッペルスさ、疎外する者さ、というような開き直りもあるかもしれませんね。
さて、疎外を語っている哲学者をボードリヤールをきっかけとして見ていくんですが、ルソーから何人かの哲学者を見て、疎外を見ていきます。
一人一人興味深いし、ポイントはいろいろとあるのですが、著者は「疎外」を人間が己の能力を発揮できていない、明らかに幸せでない状態のように使っているように思います。これも、私が読めていないかもしれませんが、そう読んでおきます。
それでね、「その疎外を論じる時、人は、過去にあるべき理想があって、そこに帰ろうと言い出してしまうことが多い。それは誤りである」と著者は言っています。
その倒錯を起こしている哲学者として批判されているのは、パッペンハイムとハンナ・アレントです。
逆に誤読されているのは、ルソー、マルクスの疎外論である、と。
内容は次回に回しますが、著者の主張は、「現代の暇と退屈の解決策は、過去にヒントがあるかもしれないが、過去にあった人間の姿に帰るのは間違いだ。未来に新たな暇と退屈の倫理を打ち立てるべきだ」ということだと思います。
著者は常に未来志向でモノを語る。過去を理想化することには懐疑的です。
400万年もの遊動生活を引き合いに出したのは、そこに理想を見出すためではない。定住を始めてしまった人間はそこに帰れるわけなどありません。
また、ウェブレンの言う「有閑階級の理論」も身分格差を前提として生み出されたものですから、それが復活するのがいいと言っているわけではないです。あくまで、暇と退屈を生きるすべを知っていた人がいたかもしれない、というところで引いているわけです。
著者が長い射程をもっている理由は、ハイデガーの退屈論に立ち向かうため、といったことを書きましたが、それは過去を理想化して立ち向かうのではないのです。
著者は、あくまで過去はヒントであり、新たな倫理学の構築を目指しているわけです。
著者は、これをはっきりさせるために疎外論と本来こういうあるべき状態があったはずという考えがセットになっていることを批判せずにいられないのだと思います。
結局、過去に理想があるなどというのは、思想家として最低ではないか?と私は思います。新たな未来を作るために我々は思想している。決して、過去を美化してそこに閉じこもることを推奨する倫理学などあってはなりません。
実際に、著者が肯定的に引いているルソーやマルクスは、過去に理想があったなどと言っているわけではなく、現状を分析し、疎外のポイントを見出し、現在をしっかりと捉え、未来にはこうじゃないほうがいいね、と言っただけだということがきれいに炙り出されてきます。
で、この構図を踏まえた上で、ボードリヤールの消費社会批判と、映画、ファイトクラブについて見ていきたいのですが、それは次回のお楽しみです。
が、1つ、ルソーの分析で自己愛と利己愛という非常に重要な概念が紹介されているので、それに触れておきたいと思います。
ルソーの自然状態に関する議論の中で、自然状態と社会状態が対比されています。
自然状態において発生するのが自己愛で、社会状態において発生するのが利己愛だと言っています。どういうことか?
自然状態における自己愛は単に自己保存の衝動である、と。危険が迫れば逃げる。生きていたいから逃げる。それだけである、と。
しかし、社会状態における利己愛は他人との比較の中で、関係の中で生じる。他人との比較の中で自分を他人よりも高い位置に置きたいというものだ、と。
これね、「人が人を見下す」とか、「人が人を恨む」とか、そういう他人へのネガティブな感情が一気に説明できてしまう強力な枠組みです。社会生活を人間が営んでいるからこそ、その中で所有概念があるからこそ、その中で「権利」といった概念が万人にあるからこそ、成立します。
「他人に何かを奪われること」の自然状態と社会状態の比較が非常にわかりやすいです。
自然状態の中で他人に何かを奪われても、仕方ない、で済みます。木の実をもって移動していたらクマに出会ってそれを落とした。単に、逃げ出せばいい。それが人であり、自分より強くて、自分からそれを奪ったとて、逃げればそれでいい。
クマとヒトに差はないですね。
ただ、社会状態の中で他人に何かを奪われたら、仕方ない、では済みません。奪った他人にそんな権利はないはずであるから。こう考えると、権利という概念が社会によって生み出されたというのが非常に鮮やかにわかりますね。
他人を見下したり、他人を恨んだりしたら、それは「ああ、私って社会状態を生きているんだなあ」と実感することにすると、ちょっとは気持ち的に楽でしょうか・・・。
このルソーの分析は人間は置かれる状態によって大きく変わるもんだ、ということをすごくよく理解させてくれます。今後もおそらく人間は社会状態の中に置かれるわけですが、その中でどうすれば「暇と退屈」を幸せに生きていくことができるのか?いや、むしろどんな条件であっても「退屈」を強いてくる社会を変えていけるのか?を考えるきっかけになりますよね。
「え?どう?」というところはまた次回にいたしましょう。
それでは次回をお楽しみに。
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