こんばんは。伊藤です。寒いです。
外は寒そうです。改めて、暖房のありがたみを感じています。
更新が遅くなってすいませんが、今日も第四章:暇と退屈の疎外論を見ていこうと思います。
この章には、ある意味で著者の結論が書かれています。
著者の結論は何か?
結論は「現在の消費社会において、豊かに生きるためには、消費ではなく浪費が必要である。」です。ただ、これはちゃんと分析結果を踏まえて読まないと誤解が生じると思いますので、説明を試みます。
この分析はボードリヤールに依拠しています。著者はボードリヤールの消費と浪費の違いを引いてきます。贅沢自体は非難されるものではなく、非難される場合、消費と浪費が混同されているから、です。
で、まずは浪費を説明します。「浪費とは、必要を越えて物を受け取ること。」これはいいですよね。で、だからこそ、「浪費は満足をもたらす」のです。必要以上に物を受け取ったら満足、というのはよくわかると思います。
それで、「消費には終わりがない」の説明に入ります。消費はモノを受け取るのではなく、概念を受け取るだけなので、満足がない。終わりがない、と。終わりがなく駆り立てられ続けるものだ、と。
ここに、ちょっとよくわからない感覚とわかる感覚の両方がありますよね。
確かに、ブームとかを見ると、消費には終わりがない、という感覚を感じます。ラーメンブームで、あの店にいったとか、あの店がどうだとか。その話題を作るためにラーメン食べているんじゃないの?と思うような人もいます。それはそれで1つの人生ですけど、なんか変な感じはします。
そういう「顕示的な」部分が消費にはある、と。経済学で言う「消費」とボードリヤールの意味づけた消費はちょっと違いますので、こういう表現になってます。お許しください。
人に言える消費と言えない消費ってあるよなあ、と私は思います。たとえば、エッチなお店に行ったとして、それを語りたいかというと、あんまり語りたくないのではないかな、と。
それを語り合うコミュニティーも存在しえますけどね。ちょっと怖いかな・・・。Web上ではあの店はいいとか、あの店はダメだとか。
そうすると、コミュニティー形成型のマーケティングをしている人たちは、人を消費に駆り立てていて、幸せにしない人たちだってことになります。それはそういう面もあることはあるなあ、ぐらいに私は思います。
日本だと、どうしても芸事型のコミュニティーというものが存在しています。それは江戸時代とかでも存在している。茶道とかね。俳句とかね。
そういう芸事を通じての人とのつながりとヒエラルキーってまさに教養に近い部分じゃないですか。そういうものを仕事にする、ビジネスにするというパッケージが最近よく出てはいます。駆り立てられるというよりは、奥深すぎて、というような方向のもので。これやってると退屈しないんじゃないかなあ、と思ったりするのです。
著者はこの著作では書いていませんけど、ウェブレンから得られる暇と退屈への処方箋には、このあたりの話があるということは思っていると思います。
だってね、納得するかは別にして、フォーディズムは成立しえない、なぜなら大量消費が終わってしまうから、というようなことを著者は書いています。
で、大量消費の後に何が来るかと言うと、多品種少量生産、ニッチ型のビジネスですよね。
そのニッチ型のビジネスにおいては、共通の話題、神話と言うか、ストーリーとなりうるものが、その道の分だけ生産されていって、それはそれで奥が深いもので、教養とも呼べるものにつながりうるんですよね・・・。そうすると、暇と退屈が部分部分では解消される流れが成立しうると思うんですよね。
そりゃ、メインストリームの「マス」では、そうではないですよ。でもね、その駆り立てられ続ける「マス」の崩壊も少しずつ進むんじゃないかな、という見方もできるんですよね。
私はすごーく嫌な言い方をすると、「無知、無責任との戦い」というものが自分のコンセプトだと思っています。その中で、殲滅すべきものは「駆り立てられるマス」なんですよね。はっはっは。
だから、私としては、その「駆り立てられるマス」には崩壊してほしくてしょうがないのです。
でも、今は実際に、「無知、無責任に迎合するシステム」で、企業は集金しようとしている面がある。それは認めざるを得ない。大学生の「あなたのやりたいことがきっとある」といった言説にもそういうことを感じます。だから、著者による「暇の退屈の問題提起」にすごく共感をしているわけです。
でね、もはやそこまで極端にはならないだろうと思うのですが、著者はこの消費社会における終わりなき消費に駆り立てられる人々を映画「ファイトクラブ」を例に語っています。
実際に、ファイトクラブ、見てみてください。著者の分析の延長にある消費社会の狂気と、その枠内での反発がどのような末路をたどるのか、というお話です。
でね、もっと言うとしたら、消費社会の枠内での解決はだめじゃないか?という論点も提示しえます。が、私のこれまで書いていることを見れば明らかですが、中からでも十分変えていけるんじゃないかな、と。著者は解決策はきっと別の著作でお書きになるんだと思いますけどね。
それでね、著者は正しくマルクスを読めば、労働者があまりに労働時間がすさまじい状況で暮らしているのが問題だと言っています。そして、その上、終わりなき消費によって駆り立てられ続けるのならば、救いがないではないか、と。
でもね、労働時間はまあ、マルクスが悲惨だと思った時代よりはマシで。
その中での余暇産業に時間を狙われ、終わりなき消費の中で、自分を阻害し続ける人ばかりならば救いはないけれど、みんな、暇の問題には少し気づき始めている。
で、じゃあ、暇な時に消費するんじゃなくて、浪費しろ!が結論なんですが、私はコミュニティー型のビジネスの中に著者の言う「浪費」もあるんじゃないかなあ、とちょっと楽観的です。もしくはちょっと唐突ですが、アカデミーの中に「浪費」があると思っています。このへんはまた別の機会に語りましょう。
今日はこのあたりにしておきます。
ちょっと、人間の限界に挑戦する感じで忙しいのですが、まあ、しょうがないです。常に限界に挑戦してこそ、人間だ!ということで。それでは次回をお楽しみに。
外は寒そうです。改めて、暖房のありがたみを感じています。
更新が遅くなってすいませんが、今日も第四章:暇と退屈の疎外論を見ていこうと思います。
この章には、ある意味で著者の結論が書かれています。
著者の結論は何か?
結論は「現在の消費社会において、豊かに生きるためには、消費ではなく浪費が必要である。」です。ただ、これはちゃんと分析結果を踏まえて読まないと誤解が生じると思いますので、説明を試みます。
この分析はボードリヤールに依拠しています。著者はボードリヤールの消費と浪費の違いを引いてきます。贅沢自体は非難されるものではなく、非難される場合、消費と浪費が混同されているから、です。
で、まずは浪費を説明します。「浪費とは、必要を越えて物を受け取ること。」これはいいですよね。で、だからこそ、「浪費は満足をもたらす」のです。必要以上に物を受け取ったら満足、というのはよくわかると思います。
それで、「消費には終わりがない」の説明に入ります。消費はモノを受け取るのではなく、概念を受け取るだけなので、満足がない。終わりがない、と。終わりがなく駆り立てられ続けるものだ、と。
ここに、ちょっとよくわからない感覚とわかる感覚の両方がありますよね。
確かに、ブームとかを見ると、消費には終わりがない、という感覚を感じます。ラーメンブームで、あの店にいったとか、あの店がどうだとか。その話題を作るためにラーメン食べているんじゃないの?と思うような人もいます。それはそれで1つの人生ですけど、なんか変な感じはします。
そういう「顕示的な」部分が消費にはある、と。経済学で言う「消費」とボードリヤールの意味づけた消費はちょっと違いますので、こういう表現になってます。お許しください。
人に言える消費と言えない消費ってあるよなあ、と私は思います。たとえば、エッチなお店に行ったとして、それを語りたいかというと、あんまり語りたくないのではないかな、と。
それを語り合うコミュニティーも存在しえますけどね。ちょっと怖いかな・・・。Web上ではあの店はいいとか、あの店はダメだとか。
そうすると、コミュニティー形成型のマーケティングをしている人たちは、人を消費に駆り立てていて、幸せにしない人たちだってことになります。それはそういう面もあることはあるなあ、ぐらいに私は思います。
日本だと、どうしても芸事型のコミュニティーというものが存在しています。それは江戸時代とかでも存在している。茶道とかね。俳句とかね。
そういう芸事を通じての人とのつながりとヒエラルキーってまさに教養に近い部分じゃないですか。そういうものを仕事にする、ビジネスにするというパッケージが最近よく出てはいます。駆り立てられるというよりは、奥深すぎて、というような方向のもので。これやってると退屈しないんじゃないかなあ、と思ったりするのです。
著者はこの著作では書いていませんけど、ウェブレンから得られる暇と退屈への処方箋には、このあたりの話があるということは思っていると思います。
だってね、納得するかは別にして、フォーディズムは成立しえない、なぜなら大量消費が終わってしまうから、というようなことを著者は書いています。
で、大量消費の後に何が来るかと言うと、多品種少量生産、ニッチ型のビジネスですよね。
そのニッチ型のビジネスにおいては、共通の話題、神話と言うか、ストーリーとなりうるものが、その道の分だけ生産されていって、それはそれで奥が深いもので、教養とも呼べるものにつながりうるんですよね・・・。そうすると、暇と退屈が部分部分では解消される流れが成立しうると思うんですよね。
そりゃ、メインストリームの「マス」では、そうではないですよ。でもね、その駆り立てられ続ける「マス」の崩壊も少しずつ進むんじゃないかな、という見方もできるんですよね。
私はすごーく嫌な言い方をすると、「無知、無責任との戦い」というものが自分のコンセプトだと思っています。その中で、殲滅すべきものは「駆り立てられるマス」なんですよね。はっはっは。
だから、私としては、その「駆り立てられるマス」には崩壊してほしくてしょうがないのです。
でも、今は実際に、「無知、無責任に迎合するシステム」で、企業は集金しようとしている面がある。それは認めざるを得ない。大学生の「あなたのやりたいことがきっとある」といった言説にもそういうことを感じます。だから、著者による「暇の退屈の問題提起」にすごく共感をしているわけです。
でね、もはやそこまで極端にはならないだろうと思うのですが、著者はこの消費社会における終わりなき消費に駆り立てられる人々を映画「ファイトクラブ」を例に語っています。
実際に、ファイトクラブ、見てみてください。著者の分析の延長にある消費社会の狂気と、その枠内での反発がどのような末路をたどるのか、というお話です。
でね、もっと言うとしたら、消費社会の枠内での解決はだめじゃないか?という論点も提示しえます。が、私のこれまで書いていることを見れば明らかですが、中からでも十分変えていけるんじゃないかな、と。著者は解決策はきっと別の著作でお書きになるんだと思いますけどね。
それでね、著者は正しくマルクスを読めば、労働者があまりに労働時間がすさまじい状況で暮らしているのが問題だと言っています。そして、その上、終わりなき消費によって駆り立てられ続けるのならば、救いがないではないか、と。
でもね、労働時間はまあ、マルクスが悲惨だと思った時代よりはマシで。
その中での余暇産業に時間を狙われ、終わりなき消費の中で、自分を阻害し続ける人ばかりならば救いはないけれど、みんな、暇の問題には少し気づき始めている。
で、じゃあ、暇な時に消費するんじゃなくて、浪費しろ!が結論なんですが、私はコミュニティー型のビジネスの中に著者の言う「浪費」もあるんじゃないかなあ、とちょっと楽観的です。もしくはちょっと唐突ですが、アカデミーの中に「浪費」があると思っています。このへんはまた別の機会に語りましょう。
今日はこのあたりにしておきます。
ちょっと、人間の限界に挑戦する感じで忙しいのですが、まあ、しょうがないです。常に限界に挑戦してこそ、人間だ!ということで。それでは次回をお楽しみに。
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