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> 暇と退屈の倫理学_その7
 こんにちは。伊藤です。

 例によって日が開いてすいません。

 で、ようやく暇と退屈の倫理学の7回目。今日は第5章:暇と退屈の哲学について見ていきましょう。引っ張り続けましたが、ハイデガーがようやく登場します。

 ハイデガーの講義録は大学の図書館にあったので、ほとんど読みました。正直、ようわからんかったのですが、私の感覚的理解においては、論理的に順をおって説明しようとすると、根本的には循環的説明に陥るということだけはよくわかりました・・・。

 「世界解釈はどこかしらのとっかかり、起点を持たないと、始まらない。」というお話ですね。ある意味で、これは思考の根本的な部分でもあります。

 で、この章で著者はハイデガーの退屈論を紹介します。第一形式から第三形式まで。

 でね、ハイデガーの退屈論は深い。なぜ深いかというと、ハイデガーは退屈こそが哲学の源泉である、というようなことを言っているのです。哲学者が「哲学とは○○」と言った時の○○にあてはまるものは、その人の哲学そのものであったりします。ハイデガーの哲学、形而上学とは何か?の答えが、退屈であるならば、その退屈論はハイデガーの思想そのものということにもなりますよね。

 とはいえ、「存在と時間」では、不安こそ哲学と言っているような気がするのですが、転向したようです・・・。まあ、彼ぐらい偉大だと、それもよしと。パトナムほどは転向してませんからね。

 哲学とは「気分」に住みつくものであり、その気分は「不安」じゃなくて「退屈」である。だから人は哲学する、と。

 では退屈とは何か?について、ハイデガーの退屈の第一形式から第三形式をもってきます。

 第一形式:何かによって退屈させられている

 第二形式:何かに際して退屈している

 第三形式:なんとなく退屈だ

 この3つがハイデガーの退屈の3つの形式です。ハイデガーは退屈を3つに分類しているわけです。MECE感がある分け方ですね。

 自分と環境があって。外部環境に退屈させられる場合と、なんらかの行為に際して退屈している場合と、存在していること自体が退屈な場合と。

 第一形式から第三形式まで、退屈はどんどん深くなっています。ハイデガーの例えは本を読んでもらえばわかりますので、私なりに例えてみます。

 第一形式は、めんどくさい人とかといっしょにいなくてはならないような状況。正直、うざい。こいつといると退屈だ、という感じの退屈です。解決策は簡単。そいつと一緒にいなければいい。

 第二形式は、何かしら楽しげな人といるけど、何か退屈を感じる。別にうざい人がいるわけでもない。それなりに楽しい。でもなんか物足りない。なんでだろう?ディズニーランドに行ったり、ディズニーシーに行ったり。それなりに楽しいけど、なーんか違う感じでしょう。

 この第一形式と第二形式を深く見てみます。

 そもそも誰かに退屈させられるのならば、そいつから離れればいいのだけど、そもそも誰かに何かに退屈させられる私って何?という問いはありえると思います。誰といようと退屈ではない人生って素晴らしいんじゃない?という話。

 何かに際して退屈しているというのも、楽しい誰かと、楽しい何かと一緒にいても退屈な私の人生って何?という問いがありえます。もっと根本的な何かがあるような気がする。

 で、根源は何かというと、第三形式です。「なんとなく退屈だ」ですね。

 これは、ある意味で最強の退屈です。根本的に解消しようがないのではないか、と。

 これまでの著者の議論とあわせてみてみると、より鮮明です。第二形式は、余暇産業に暇を狙われて、消費を強いられる労働者という話とあわせるとよくわかる。消費は満足をもたらさない。終わりがなく、自分自身を疎外するだけである、と。

 では、第三形式「なんとなく退屈だ」をなんとかすることができるならば、人は幸せである、ということになります。

 が、この退屈に至るハイデガーの問いの深め方も、示唆深いので、今日はそちらを見てみたい。

 著者が引用しているハイデガーの問いを引用してみます。

 私たちはいま自分たちの役割を探している。いや、というよりも、私たちはいま自分たちに何か役割を与えざるを得ない。

 しかしそれはいったいどういうことだろう?私たちは自分たちで自分たちにわざわざ役割を与えなければならないほど軽い存在になってしまったのだろうか?もし私たち自身が自分たちにとって重要な存在であるのなら、わざわざ自分たちの役割を探し当てなくてはならないということにはならないだろうから。

 どうしてそんなことになってしまったのか?なぜ私たちは自分たちの意味や可能性を見いだせないのか?これはまるであらゆる物が私たちに無関心になって、大きなアクビをふきかけているかのようではないか。

 なんにせよ、わたしたちは自分たちのために1つの役割を探している。「これこそが私のなすべきことだ」と言える何かを探している。

 言い換えれば、私たちは自分たちを自分たちにとって、ふたたび興味あるものにしようとしている。自分たちが自分たちにもっと関心をもているようになろうとしている。

 だが、ここには何かおかしなことがありはしないか?なぜそんなことをしなければならないのだろう?

 もしかしたら、私たち自身がいま、自分たちにとって、退屈になってしまっているのではないか?だからなんとかして自分たちを自分たちにとって興味あるものにしようとしているのではないか?

 しかし、人間が自分自身にとって退屈になってしまっているなどということがありえるのだろうか?なぜそんなことになってしまったのだろうか?

 引用終わり。噛みしめたいぐらいの名文ですね。

 これ、「何かしら人には役割があるんだ、それは尊いものなんだ!」の全否定ですよね。そんなことしなくても人には価値があるのでは?というハイデガーの問いかけです。ニートの開き直りにも通じます・・・。

 事前に、社会状態と自然状態の比較をやっているので、役割というのが社会状態から発生しているということも明白です。自然状態では役割なんてないのですから。

 この問いへのハイデガーの答えが、「自分自身にとって自分自身が退屈になってしまっているから」なんですね。

 でもまあ、そうすると、哲学するしかなくなるはずなんですけどね・・・。多少、哲学ブームになっているようにも思いますけど、現代の「無知化」ともいうべき現象はどう説明しましょうか・・・。

 で、役割を強いるような労働賛美社会を排除しつつ、そもそも「人間」が退屈を克服するには?というのを次の章で見ていく構成になっています。

 私が感じることとしては、本当に新しい倫理の構築が求められているなあ、ということです。

 過去には参考になることはあっても、答えはない。新たに作らねばならない。ニートなんて、出現したのは最近のことですからね。ニートからワークホリックまで、リア充からネカマまでカバーしうるような「暇と退屈の倫理学」を構築していくことが今、求められているように思います。

 でなければ、不毛に死んでいく、不毛に不幸を感じる人々がすごく増えてくるんじゃないかなあ、と思いまして。

 ただ、そんな悩みも贅沢なのかもしれません。今後、経済の混乱はどう考えてもあるでしょうからね・・・。インフレになったら、給与は上がららんけど物価が高騰する状況になるでしょうからね。

 給与は経済成長がないと上がらんですよ。そして、代替労働力がある以上、下方へ下方へと均衡点が移動していきますよ・・・。インフレになれば給与が上がるとブラジルを見て言っている人は大丈夫でしょうかね・・・。

 と、話がそれ始めたのでこのあたりで。それでは次回をお楽しみに。


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2011.12.30(09:55)|書籍コメント(0)トラックバック(0)TOP↑
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