ブログの更新が滞っているので、久々にメルマガの内容を転載します。
手抜きでごめんなさい・・・。
みなさん、こんにちは。伊藤です。
大学の仕事を始めた時、
「塾がダメだ、塾がダメだ」と聞いて、本当かいな・・・、と
思いましたが、確かにダメですね・・・。
普通に学校もダメで、家庭もダメで、塾もダメで・・・。
大学も当然、ダメで・・・。こんな状況で育つ子供って・・・、と思いましたが、
今日はそういうお話です。
まず、教育はサービスなのか?という論点が1つあります。
教育は懇切丁寧を旨とするんだ!と。お客様に奉仕するんだ、と。
でもね、それは間違っています。
生産型の教育において、最終的に何を伸ばせばいいかと言うと、
汎用的な思考力です。いつも言ってることが同じですいません。
それでね、わかりやすいと思える説明ばかり聞いていると、考える能力が減退します・・・。揺さぶらないとね・・・。
それと、何かができるようになる、ということは人格教育と切り離しは不可能です。
ノウハウ、スキル、というものが、あたかもバラバラに存在しているとの認識が世の中に広まっていますが、それは間違っています。
全てはつながっている。汎用的思考力を上げる教育が行われれば、
スキル、ノウハウを学ぶ能力が向上し、全体に好影響となるのです。
これがわかっていないと、相当厳しいのですが、学習塾などは、これがわかっていない
人が増え始めているようです。
昔はわかっていたようです。
上位と下位の子供には、本質から教えるが、中位の子供にはあえてバラバラなノウハウとして教えたほうが目先の伸びが大きい。だから、中位のクラスではテクニックばかり教えることになる、と言っている塾の指導者がいました。今は、真顔でバラバラのテクニックを教えて良しとしてる面が大きいようですね。
学校の先生は、普段の生活指導などと、成績がリンクしていることが、体験的に
わかっている面もあります。(ひどい先生も多数いるでしょうが、それはおいておきましょう)
ただ、家庭教育が崩壊し始めている。そして、家庭が学校の先生なんてダメ、というラべリングをしている面もあるので、学校の先生が力を発揮できない。
そして、学校ではさすがに習熟度別教育が導入され始めましたが、
ばらつきが大きいと、教える側も大変です。
習熟度別を導入したとして、公立の中学校などはバックグラウンドが多様で、能力も相当多様な生徒が集まってきますので、非常に難しい。すると、はやり短期的には効率が悪く、親も学校を信用できない。
家庭教育の何が悪化しているか?
要因として、「外が危ない」があり、思考力が減退している。
外が危ないと、子供を外に遊びに行かせられない。そうすると、近所の子供と外で遊ばない。
結局、あらゆる思考は、自然のアナロジーの記号化です。
ルースミリカンのように、季節の円環が因果関係の起源などと大げさに言わなくても、
川を見ていれば、川は常に流れていて、今あるのは元の水ではない、というのは自然にわかります。逆に言葉にする人がいたら、何を当たり前のことを面倒に言っているんだろう・・・、と思うことでしょう。
子供が自然と接する機会が減少すると、結局、思考能力が低下します。
また、他者と出会わない親も増加し始めています。
それは、核家族化というところで言えると思います。
核家族を自立の象徴のように言う人がいますが、あんなもんは
面倒なことからの逃避です。親との付き合い、舅、姑との付き合いとの逃避でしか
ありません・・・。面倒なことからカネを払って逃げましょう、という本音です。
そんな神経の親が育てた子供が、面倒な人付き合いをする子供になるでしょうか?
なんでもカネを払えばいいんだよ、そうすれば、面倒くさいことからはさよならできるよ、
という考えが支配した時代もありました。その考え方の延長には、考えるのも面倒だ、人付き合いも面倒だ、があることはよくわかるでしょう。
そんな世代が「コミュニケーション能力が大事だ!」というメッセージにさらされたりしています。笑ってしまいますね、正直なところ・・・。
大学の側は、そんな変化に気づかずに、昔通りの授業をしますが、
全く伝わりません。
私が大学で授業をすると、生徒が「因果関係が大事なことがわかった」とか言ったりしますが、昔の大学では、生徒はそんなことは知っているのが当たり前だったのです。今では、当たり前ではない。
因果関係に関する仮説と、解決策に関する仮説のつながりの中で物事を捉えることが
大学生の要件に近かったわけです。でも、今の大学生は、意識的にも無意識的にも、それが文字通りわからないのです。おそろしいことですね。
教育の崩壊は、学校、塾、家庭、大学の中で、着実に進行しています・・・。
当然、ビジネスの世界でもそうですけどね・・・。
これをなんとかしたい。私はそう思っています。
最近の塾ではテレビ芸としての教育のようなものを売りにするものもあります。
テレビの宣伝でやっていますね。あれはね、学校での指導があってこそ成立するものです。ある意味で、学校教育のフリーライダーとして儲けている。
ただ、彼らはそれに気づいていないかというと、そうでもなく。
とある人気講師が言っていました。「我々の教育はフィクションですよ」と。
ノウハウを映像にして教育しよう!という大号令があったように思います。
それの末路はあまり盛り上がらずに終わった、というところかもしれません。
まだ、進行中かもしれません。
ただね、あれは普段のOJTがあってこそ成立するのです。
あれだけで成立するわけがありません。
じゃなきゃ、コミュニケーション能力なんていらないですよね。
人との出会いが貴重で貴いのです。
普段、職場でちゃんと人と出会っていますか?
いいこと、嫌なことを含めて、その関係を引き受けていますか?
結局、それしか人が人として生きる意味はありません。
ちょっと長い文章を書いてしまいましたね。ごめんなさい。
それでは次回をお楽しみに。
手抜きでごめんなさい・・・。
みなさん、こんにちは。伊藤です。
大学の仕事を始めた時、
「塾がダメだ、塾がダメだ」と聞いて、本当かいな・・・、と
思いましたが、確かにダメですね・・・。
普通に学校もダメで、家庭もダメで、塾もダメで・・・。
大学も当然、ダメで・・・。こんな状況で育つ子供って・・・、と思いましたが、
今日はそういうお話です。
まず、教育はサービスなのか?という論点が1つあります。
教育は懇切丁寧を旨とするんだ!と。お客様に奉仕するんだ、と。
でもね、それは間違っています。
生産型の教育において、最終的に何を伸ばせばいいかと言うと、
汎用的な思考力です。いつも言ってることが同じですいません。
それでね、わかりやすいと思える説明ばかり聞いていると、考える能力が減退します・・・。揺さぶらないとね・・・。
それと、何かができるようになる、ということは人格教育と切り離しは不可能です。
ノウハウ、スキル、というものが、あたかもバラバラに存在しているとの認識が世の中に広まっていますが、それは間違っています。
全てはつながっている。汎用的思考力を上げる教育が行われれば、
スキル、ノウハウを学ぶ能力が向上し、全体に好影響となるのです。
これがわかっていないと、相当厳しいのですが、学習塾などは、これがわかっていない
人が増え始めているようです。
昔はわかっていたようです。
上位と下位の子供には、本質から教えるが、中位の子供にはあえてバラバラなノウハウとして教えたほうが目先の伸びが大きい。だから、中位のクラスではテクニックばかり教えることになる、と言っている塾の指導者がいました。今は、真顔でバラバラのテクニックを教えて良しとしてる面が大きいようですね。
学校の先生は、普段の生活指導などと、成績がリンクしていることが、体験的に
わかっている面もあります。(ひどい先生も多数いるでしょうが、それはおいておきましょう)
ただ、家庭教育が崩壊し始めている。そして、家庭が学校の先生なんてダメ、というラべリングをしている面もあるので、学校の先生が力を発揮できない。
そして、学校ではさすがに習熟度別教育が導入され始めましたが、
ばらつきが大きいと、教える側も大変です。
習熟度別を導入したとして、公立の中学校などはバックグラウンドが多様で、能力も相当多様な生徒が集まってきますので、非常に難しい。すると、はやり短期的には効率が悪く、親も学校を信用できない。
家庭教育の何が悪化しているか?
要因として、「外が危ない」があり、思考力が減退している。
外が危ないと、子供を外に遊びに行かせられない。そうすると、近所の子供と外で遊ばない。
結局、あらゆる思考は、自然のアナロジーの記号化です。
ルースミリカンのように、季節の円環が因果関係の起源などと大げさに言わなくても、
川を見ていれば、川は常に流れていて、今あるのは元の水ではない、というのは自然にわかります。逆に言葉にする人がいたら、何を当たり前のことを面倒に言っているんだろう・・・、と思うことでしょう。
子供が自然と接する機会が減少すると、結局、思考能力が低下します。
また、他者と出会わない親も増加し始めています。
それは、核家族化というところで言えると思います。
核家族を自立の象徴のように言う人がいますが、あんなもんは
面倒なことからの逃避です。親との付き合い、舅、姑との付き合いとの逃避でしか
ありません・・・。面倒なことからカネを払って逃げましょう、という本音です。
そんな神経の親が育てた子供が、面倒な人付き合いをする子供になるでしょうか?
なんでもカネを払えばいいんだよ、そうすれば、面倒くさいことからはさよならできるよ、
という考えが支配した時代もありました。その考え方の延長には、考えるのも面倒だ、人付き合いも面倒だ、があることはよくわかるでしょう。
そんな世代が「コミュニケーション能力が大事だ!」というメッセージにさらされたりしています。笑ってしまいますね、正直なところ・・・。
大学の側は、そんな変化に気づかずに、昔通りの授業をしますが、
全く伝わりません。
私が大学で授業をすると、生徒が「因果関係が大事なことがわかった」とか言ったりしますが、昔の大学では、生徒はそんなことは知っているのが当たり前だったのです。今では、当たり前ではない。
因果関係に関する仮説と、解決策に関する仮説のつながりの中で物事を捉えることが
大学生の要件に近かったわけです。でも、今の大学生は、意識的にも無意識的にも、それが文字通りわからないのです。おそろしいことですね。
教育の崩壊は、学校、塾、家庭、大学の中で、着実に進行しています・・・。
当然、ビジネスの世界でもそうですけどね・・・。
これをなんとかしたい。私はそう思っています。
最近の塾ではテレビ芸としての教育のようなものを売りにするものもあります。
テレビの宣伝でやっていますね。あれはね、学校での指導があってこそ成立するものです。ある意味で、学校教育のフリーライダーとして儲けている。
ただ、彼らはそれに気づいていないかというと、そうでもなく。
とある人気講師が言っていました。「我々の教育はフィクションですよ」と。
ノウハウを映像にして教育しよう!という大号令があったように思います。
それの末路はあまり盛り上がらずに終わった、というところかもしれません。
まだ、進行中かもしれません。
ただね、あれは普段のOJTがあってこそ成立するのです。
あれだけで成立するわけがありません。
じゃなきゃ、コミュニケーション能力なんていらないですよね。
人との出会いが貴重で貴いのです。
普段、職場でちゃんと人と出会っていますか?
いいこと、嫌なことを含めて、その関係を引き受けていますか?
結局、それしか人が人として生きる意味はありません。
ちょっと長い文章を書いてしまいましたね。ごめんなさい。
それでは次回をお楽しみに。
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