今日は首都大学に行っていました。
「遊びを通じて思考を学ぶ」という講座をやりました。缶けり、レゴを通じて、非言語的思考を意識化していければと思い、首都大学の4年生と一緒に企画して、実際に授業をやりました。
結局ね、話が訳が分からない人というのは、言語をこねくりまわしているだけ、というケースがけっこう多い。
言語をこねくり回す場合、ちゃんと系のルールの中で事象を操作しているのならばいいのですが、そうでない場合はただの言葉遊びです。小さな系の中で迷子になっている場合もありますが・・・。
いわゆる発想が必要な場合、非言語的な思考が必要になります。あてはめるモデルを新しくするとか、枠組みそのものを変えるとか。それは認知主義で内的表象・内部表現と言われる部分へのアクセスが必要となります。
内的表象・内部表現として、見えている、聞こえている、感じていることを言語化するならば、新たな発想を得ることができます。しかし、この部分に対するまともな知識をもっている人が圧倒的に不足しています。
当然、言語の操作能力に問題があって、目の前の問題に対して正しく対処できないことが課題である場合もあるのですが、今回のフォーカスはそこではありません。
私は言語を学ぶ意味は言語の表現力が小さすぎることを実感するためだと思っています。当然、言語表現はそれだけですごい表現力を持っているのですが、言語化される前の世界の情報量はそれをはるかにしのぎます。
また、言語の想起性は、世界を非言語で認知していることに自覚的な人にとっては、その世界をより豊かにしてくれます。同じ映像を見ても、効果音や共に語られる言葉が違うだけで脳の反応が変わってくることがわかっています。
これを言語によるバイアスととらえるのか、言語が世界を認知せしめているととらえるのかはいろいろと考え方があると思います。どちらかというと、米国の学者は前者、日欧の学者は後者の立場のような気がします。
遊ぶことで、豊かな内的表象とその操作に意識を向かわせることができるのではないか?と思っています。言語を操作することだけが考えることだと思ってしまっている人があまりに多い中でのそれに対するカウンターとしての一つの試みです。
こういったことへの着想を得たのは、ルースミリカンの「意味と目的の世界」が大きかったと思います。彼女の著作には生物の内的表象に関するヒントが詰まっていました。当然、人間に関する研究を認知主義の文献から拾っていきながら、ミリカンを参考にするという考え方ですが・・・。
この試みの報告書は受講者を中心にして作っていただいて、大学に出して、来年はこういった試みを更に本格化させていくことを私は目指しています。
↓は授業風景です。
http://www.facebook.com/photo.php?fbid=335036503213215&set=a.335035656546633.91070.100001206042620&type=1&theater
大学では、教授によるちゃんとした講義は充実しています。ハイレベルだと思います。でもね、大学生がやってきた受験勉強があまりにひどくなってしまったために、そのレベルについていけない学生ばかりになっています。これではいけません。
がんばれがんばれで、とにかく言語を詰め込み、非言語的な思考のベースがないままに、言語を文字通り詰め込むのみの教育が「めんどうみがいい」とされて親の支持を受けていたりすると、ぞっとしますね。世も末です。
ただ、その現状はもうしょうがないので、その前提の上で、大学で何ができるか?社会人に何ができるか?を考えて、今のような方向性に辿りついております・・・。
感情マネジメント講座も、東京会場、名古屋会場のお申込み受付中です。詳細は⇒です。http://www.taii.jp/120316_landingpage.html
では、今日はこのあたりで。それでは次回をお楽しみに。
「遊びを通じて思考を学ぶ」という講座をやりました。缶けり、レゴを通じて、非言語的思考を意識化していければと思い、首都大学の4年生と一緒に企画して、実際に授業をやりました。
結局ね、話が訳が分からない人というのは、言語をこねくりまわしているだけ、というケースがけっこう多い。
言語をこねくり回す場合、ちゃんと系のルールの中で事象を操作しているのならばいいのですが、そうでない場合はただの言葉遊びです。小さな系の中で迷子になっている場合もありますが・・・。
いわゆる発想が必要な場合、非言語的な思考が必要になります。あてはめるモデルを新しくするとか、枠組みそのものを変えるとか。それは認知主義で内的表象・内部表現と言われる部分へのアクセスが必要となります。
内的表象・内部表現として、見えている、聞こえている、感じていることを言語化するならば、新たな発想を得ることができます。しかし、この部分に対するまともな知識をもっている人が圧倒的に不足しています。
当然、言語の操作能力に問題があって、目の前の問題に対して正しく対処できないことが課題である場合もあるのですが、今回のフォーカスはそこではありません。
私は言語を学ぶ意味は言語の表現力が小さすぎることを実感するためだと思っています。当然、言語表現はそれだけですごい表現力を持っているのですが、言語化される前の世界の情報量はそれをはるかにしのぎます。
また、言語の想起性は、世界を非言語で認知していることに自覚的な人にとっては、その世界をより豊かにしてくれます。同じ映像を見ても、効果音や共に語られる言葉が違うだけで脳の反応が変わってくることがわかっています。
これを言語によるバイアスととらえるのか、言語が世界を認知せしめているととらえるのかはいろいろと考え方があると思います。どちらかというと、米国の学者は前者、日欧の学者は後者の立場のような気がします。
遊ぶことで、豊かな内的表象とその操作に意識を向かわせることができるのではないか?と思っています。言語を操作することだけが考えることだと思ってしまっている人があまりに多い中でのそれに対するカウンターとしての一つの試みです。
こういったことへの着想を得たのは、ルースミリカンの「意味と目的の世界」が大きかったと思います。彼女の著作には生物の内的表象に関するヒントが詰まっていました。当然、人間に関する研究を認知主義の文献から拾っていきながら、ミリカンを参考にするという考え方ですが・・・。
この試みの報告書は受講者を中心にして作っていただいて、大学に出して、来年はこういった試みを更に本格化させていくことを私は目指しています。
↓は授業風景です。
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大学では、教授によるちゃんとした講義は充実しています。ハイレベルだと思います。でもね、大学生がやってきた受験勉強があまりにひどくなってしまったために、そのレベルについていけない学生ばかりになっています。これではいけません。
がんばれがんばれで、とにかく言語を詰め込み、非言語的な思考のベースがないままに、言語を文字通り詰め込むのみの教育が「めんどうみがいい」とされて親の支持を受けていたりすると、ぞっとしますね。世も末です。
ただ、その現状はもうしょうがないので、その前提の上で、大学で何ができるか?社会人に何ができるか?を考えて、今のような方向性に辿りついております・・・。
感情マネジメント講座も、東京会場、名古屋会場のお申込み受付中です。詳細は⇒です。http://www.taii.jp/120316_landingpage.html
では、今日はこのあたりで。それでは次回をお楽しみに。
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