さて、今日は久々に抽象的な話をします。
抽象的な話をわかりにくく書きます。ごめんなさい。
私は、認知と思考はとても似ていると思います。
目の前に世界が広がっていることと、思考はほぼ同義です。
人は、認知したことをベースに、認知している空間とは別の情報空間を作れます。
レモンを思い浮かべてくださいと言われたら、目をあけたままレモンが思い浮かぶでしょう。
目の前に広がる世界と、レモンを思い浮かべている空間は別個です。
ただ、目の前に広がる世界は確かで、レモンを思い浮かべている空間は確かでない、
と思うのはおかしいです。
人は生のまま世界を経験していません。
もしも、生のまま経験しているなら、見間違いなんておこりようもありません。
結局、解釈で物事を見ています。
認知したらその時点で思考だと言ってもいいぐらいです。
だからこそ、メディアはメッセージであり、怖いのだと思います。
自分の認知している空間で、自分が思考を操作しているわけでもないのに、
次から次へと意味あるメッセージが流れる。
それは思考を操作されていることとほぼ同義です。
その思考には、必ずしも言語はいりません。映像の結びつきでも思考です。
自分の意志で操作すれば思考です。
しまったドアが開くことを想像するのも思考です。しまった窓が開くことを想像するのも思考です。
意味不明な思考も可能です。レモンが突如犬に変わったり。レモンがわんわん吠えても、それを
自分が操作して考えているなら、それはそれでいいのです。
ただ、他人に伝わる、伝わらないで言うと、独りよがりな意味不明な思考は伝わらない。
伝わる型、伝わりやすいプロトコルのようなものが、なぜかある。
なぜか人間はつたわりやすい型を共有している。それが論理と言えるでしょう。
これが生得的か否かでウィトゲンシュタインは悩んだと思います。論考では生得的だと思ったようですけどね。
で、論理の時点でも、言語はなくてもいい。論理の型にイメージ・映像がはまればいい。
四コマ漫画でも論理は存在している。文字のない四コマ漫画だってありえますね。
ただ、しゃべって伝えるには言葉がいります。
ここで、もう少しいうと、共有している経験みたいなものが確固としてあると、
論理の型を厳密に適応しなくても、伝わることは伝わります。ツーカーの関係みたいなもんです。
でもね、初めてであった外人同士が意思を伝えあおうとしたら、厳密に正しい構文みたいなものが
必要ですよね。
前者は意味論、後者は構文論。ともに論理学の分野ではありますが・・・。
コンサルティング会社のロジカルシンキングはほとんど構文論で出来ています。
広告代理店のこれわかるよね、的な提案はほとんど意味論で出来ていると思いますけどね。
書いているうちに何の話を書いているのか、わからなくなってきましたが、
こういうような知見って、あんまり世に出ていませんよね。私はいつも繰り返し言っていますけど。
というようなところで、今日はやめておきます。
それでは次回をお楽しみに。
「思考に関する勉強会」やります。
興味ある方は↓から。
http://www.taii.jp/benkyoukai_landingpage.html
抽象的な話をわかりにくく書きます。ごめんなさい。
私は、認知と思考はとても似ていると思います。
目の前に世界が広がっていることと、思考はほぼ同義です。
人は、認知したことをベースに、認知している空間とは別の情報空間を作れます。
レモンを思い浮かべてくださいと言われたら、目をあけたままレモンが思い浮かぶでしょう。
目の前に広がる世界と、レモンを思い浮かべている空間は別個です。
ただ、目の前に広がる世界は確かで、レモンを思い浮かべている空間は確かでない、
と思うのはおかしいです。
人は生のまま世界を経験していません。
もしも、生のまま経験しているなら、見間違いなんておこりようもありません。
結局、解釈で物事を見ています。
認知したらその時点で思考だと言ってもいいぐらいです。
だからこそ、メディアはメッセージであり、怖いのだと思います。
自分の認知している空間で、自分が思考を操作しているわけでもないのに、
次から次へと意味あるメッセージが流れる。
それは思考を操作されていることとほぼ同義です。
その思考には、必ずしも言語はいりません。映像の結びつきでも思考です。
自分の意志で操作すれば思考です。
しまったドアが開くことを想像するのも思考です。しまった窓が開くことを想像するのも思考です。
意味不明な思考も可能です。レモンが突如犬に変わったり。レモンがわんわん吠えても、それを
自分が操作して考えているなら、それはそれでいいのです。
ただ、他人に伝わる、伝わらないで言うと、独りよがりな意味不明な思考は伝わらない。
伝わる型、伝わりやすいプロトコルのようなものが、なぜかある。
なぜか人間はつたわりやすい型を共有している。それが論理と言えるでしょう。
これが生得的か否かでウィトゲンシュタインは悩んだと思います。論考では生得的だと思ったようですけどね。
で、論理の時点でも、言語はなくてもいい。論理の型にイメージ・映像がはまればいい。
四コマ漫画でも論理は存在している。文字のない四コマ漫画だってありえますね。
ただ、しゃべって伝えるには言葉がいります。
ここで、もう少しいうと、共有している経験みたいなものが確固としてあると、
論理の型を厳密に適応しなくても、伝わることは伝わります。ツーカーの関係みたいなもんです。
でもね、初めてであった外人同士が意思を伝えあおうとしたら、厳密に正しい構文みたいなものが
必要ですよね。
前者は意味論、後者は構文論。ともに論理学の分野ではありますが・・・。
コンサルティング会社のロジカルシンキングはほとんど構文論で出来ています。
広告代理店のこれわかるよね、的な提案はほとんど意味論で出来ていると思いますけどね。
書いているうちに何の話を書いているのか、わからなくなってきましたが、
こういうような知見って、あんまり世に出ていませんよね。私はいつも繰り返し言っていますけど。
というようなところで、今日はやめておきます。
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