先日、大学に向かう受験勉強がおかしくなっているというような話を書いたら、小学生の子供が行っている塾がまともだとわかって的なことを言っている人がいて、少しびびりました。
中高生以降の学習と、小学生の学習は明確に違いますからね・・・。これは発達段階の問題です。小学生は標準的には100マス計算やら、九九の計算やら、覚えるところから始めてOKで、変に概念的なことを教えても、ただの自己満足に終わります・・・。というようなことをTwitterでつぶやきました。
①小学生に概念を教えるなんて自己満足だろ・・・。ピアジェの実験からもわかる話だが。なぜか中高生、大学生がそこから置いていかれる・・・。
②具体的操作、形式的操作の時期に経るべき発達を経過していない子供に、概念から教えるなんて、何を考えているのやら・・・。
③「問題が解ける=わかる」は教え方の妙な発達によって、成立しなくなって。中高生は問題が解けてもわかっていないという事態に陥ってしまう。小学生はそういうプレッシャーから逃れているからか、発達段階を無視した大人の自己満足の犠牲になる・・・。
④そして、大学生になると、前提概念をすっとばし、数式の意味やら、具体的な問題を扱うので、やってる感覚はあっても、その学問が何をどういう手法で探究しているのかもわからずに卒業する・・・。そして、使えない社会人が出来上がる。
⑤この負の連鎖を断ち切るために、大学生に遊びを通じて思考を学んでもらったりする活動をしているわけで・・・。「子供時代からやり直せってことですね!」と学生に指摘され、「確かにそうだな、とほほほほほ」
子供のころは、まずは世界をくまなく観察させて、言語で物事をラべリングして。九九を覚えて。それを使って計算させて。そこからスタートでいいんです。当然、発達には個人差がありますから、発達が遅い子供だと、中学二年生ぐらいまで100マス計算とかで、ベースの計算力みたいなものがついてくる場合があります。
それでね、言語学習に移行するまえに、世界の物事をひたすら見続けることを作ってくれるほうが大事なんです。子供を放っておくと、水滴が垂れるのをじーっと見続けていたり。世界を驚きをもって観察しつづけます。そして、それに言葉でラべリングをする。なぜを連発する。そういうもんです。
そういう子供に概念的な操作を教えようとしても、ベースがないから入りませんよ。むしろ、世界を隅々まで見せるべきです。
発達が速い子供は、確かに、概念的なことを教えても入ります。頭にすいすい入ります。でもさ、ちょっと考えればわかりますけど、体の発達なんてバラバラですよね。特にスポーツテストなんて、体が大きくなる成長期を早く終えた子供のほうが、いい成績が出るに決まっています。
だから、小学生の子供がいる方には焦ってほしくないんです。大人の自己満足で概念学習に早く移行したところで、20歳、30歳の時の能力ってどうなの?というところを考えて欲しいわけです。
確かに、社会ではスピードが評価されるわけですが、年齢による個体差は子供のころは一様ではない。今の一様な形が間違っている面もあるのです。だから、わたしは飛び級は賛成で、早く行ける子供は行ってしまうようにしつつ、ベースの学習はゆっくりと進むようにすればいいと思います。
平等を唱える人は、子供の頃の個体の成長スピードの差をどうとらえるんでしょうね・・・。
それでね、ベースの経験というか、子供のころに放っておけば子供がやるようなことの体験が抜け落ちて、無理やりいろいろ詰め込む方向に行ってしまっているようなことがある。
そうすると、言語を学習しても、頭に入らない大学生やら、社会人が出てきている、と思うわけです。
でね、これに対するソリューションとして、私が試みているのが、大学生、社会人を本気で遊ばせる。鬼ごっこをやったり、缶けりをやったり。その上で、そういう遊びでどういった能力が育まれるか?を遊んだ当人たちにディスカッションさせるといったことをやっています。
セラピーでいう「育て直し」みたいなもんです。
大学生の中には、「いいじゃないですか!子供時代からやり直せ!ってことですね。じゃないとバカは直らないってことですね!ぜひ参加したいです!」とノリノリで言う人もいて、ちょっと反応に困りますけど、本質を言い当てていて、困るわけです。
で、子供には世界をきめ細かく観察してもらって、経験量を増やしてもらったほうが、言語を無理やり詰め込む、概念を操作させようとして結局バラバラな反応を作るだけ、ということよりもいいんではないの?ということでございます。
中高生以降の学習と、小学生の学習は明確に違いますからね・・・。これは発達段階の問題です。小学生は標準的には100マス計算やら、九九の計算やら、覚えるところから始めてOKで、変に概念的なことを教えても、ただの自己満足に終わります・・・。というようなことをTwitterでつぶやきました。
①小学生に概念を教えるなんて自己満足だろ・・・。ピアジェの実験からもわかる話だが。なぜか中高生、大学生がそこから置いていかれる・・・。
②具体的操作、形式的操作の時期に経るべき発達を経過していない子供に、概念から教えるなんて、何を考えているのやら・・・。
③「問題が解ける=わかる」は教え方の妙な発達によって、成立しなくなって。中高生は問題が解けてもわかっていないという事態に陥ってしまう。小学生はそういうプレッシャーから逃れているからか、発達段階を無視した大人の自己満足の犠牲になる・・・。
④そして、大学生になると、前提概念をすっとばし、数式の意味やら、具体的な問題を扱うので、やってる感覚はあっても、その学問が何をどういう手法で探究しているのかもわからずに卒業する・・・。そして、使えない社会人が出来上がる。
⑤この負の連鎖を断ち切るために、大学生に遊びを通じて思考を学んでもらったりする活動をしているわけで・・・。「子供時代からやり直せってことですね!」と学生に指摘され、「確かにそうだな、とほほほほほ」
子供のころは、まずは世界をくまなく観察させて、言語で物事をラべリングして。九九を覚えて。それを使って計算させて。そこからスタートでいいんです。当然、発達には個人差がありますから、発達が遅い子供だと、中学二年生ぐらいまで100マス計算とかで、ベースの計算力みたいなものがついてくる場合があります。
それでね、言語学習に移行するまえに、世界の物事をひたすら見続けることを作ってくれるほうが大事なんです。子供を放っておくと、水滴が垂れるのをじーっと見続けていたり。世界を驚きをもって観察しつづけます。そして、それに言葉でラべリングをする。なぜを連発する。そういうもんです。
そういう子供に概念的な操作を教えようとしても、ベースがないから入りませんよ。むしろ、世界を隅々まで見せるべきです。
発達が速い子供は、確かに、概念的なことを教えても入ります。頭にすいすい入ります。でもさ、ちょっと考えればわかりますけど、体の発達なんてバラバラですよね。特にスポーツテストなんて、体が大きくなる成長期を早く終えた子供のほうが、いい成績が出るに決まっています。
だから、小学生の子供がいる方には焦ってほしくないんです。大人の自己満足で概念学習に早く移行したところで、20歳、30歳の時の能力ってどうなの?というところを考えて欲しいわけです。
確かに、社会ではスピードが評価されるわけですが、年齢による個体差は子供のころは一様ではない。今の一様な形が間違っている面もあるのです。だから、わたしは飛び級は賛成で、早く行ける子供は行ってしまうようにしつつ、ベースの学習はゆっくりと進むようにすればいいと思います。
平等を唱える人は、子供の頃の個体の成長スピードの差をどうとらえるんでしょうね・・・。
それでね、ベースの経験というか、子供のころに放っておけば子供がやるようなことの体験が抜け落ちて、無理やりいろいろ詰め込む方向に行ってしまっているようなことがある。
そうすると、言語を学習しても、頭に入らない大学生やら、社会人が出てきている、と思うわけです。
でね、これに対するソリューションとして、私が試みているのが、大学生、社会人を本気で遊ばせる。鬼ごっこをやったり、缶けりをやったり。その上で、そういう遊びでどういった能力が育まれるか?を遊んだ当人たちにディスカッションさせるといったことをやっています。
セラピーでいう「育て直し」みたいなもんです。
大学生の中には、「いいじゃないですか!子供時代からやり直せ!ってことですね。じゃないとバカは直らないってことですね!ぜひ参加したいです!」とノリノリで言う人もいて、ちょっと反応に困りますけど、本質を言い当てていて、困るわけです。
で、子供には世界をきめ細かく観察してもらって、経験量を増やしてもらったほうが、言語を無理やり詰め込む、概念を操作させようとして結局バラバラな反応を作るだけ、ということよりもいいんではないの?ということでございます。
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