どうも、最近、いろいろと話を聞くと、答えさえ教えてもらえばなんでもわかると思い込んでいる人がたくさんいるようです。しかし、それは幻想です。
ここがわからないと、学ぶ意味もまったくわからんと思うのですが・・・。そういったことを理解してもらうために、先日、Twitterでつぶやいた内容を書きます。
①経験してないことはわからんから。象を見たことがない人は象を知らない。論点に対する答えの言葉を知ったとしても、それを知るに値する思考経験がない人はその答えを知らない。
②当然、類似の経験から未知の事象を知るよすがとしてアナロジーがあるが。アナロジーはある程度の経験量の蓄積がないと使えない。残念。
③インターネットに書いてある言葉が指し示すことを理解するだけの思考経験がない人が文章を読んだところでね・・・。どうにもならんのよ。ただの文字の羅列というか。その文字は絵みたいなもんだよ。
④文字の学習をやる前に、原体験を増やすというか、認知量を増やすというか。そういうことをやらんとね。見た景色を細かく記載するとかさ。見たものを全部文字にするとか。そんな小学生がやるようなことをいい年をした人にやらないといけない危機的状況。
解説していきます。まず、体験していない物事は知らない、それにはみなさん同意しますよね。シンガポールに行ったことがない人は、シンガポールがどんなんであるかは語れない。象を見たことがない人は、象がどういう動物であるかわからない。
よく、目の不自由な方が象に触った話の例が出てきます。足に触った人は足の特徴を言い、牙に触った人は牙の特徴を言う。象の全体像を体験していないと、ピントがずれたことをいってしまう。
それでね、この話はそのまんまアカデミックな論点、ビジネスの論点にもあてはまります。
哲学書を読んでもちんぷんかんぷんですよね。いまどきの学生は経済学の教科書を読んでもちんぷんかんぷんなようですが・・・。それは、それを理解するだけのベースの経験がないのです。
何がしかの記述内容を理解するためには、言語の操作能力だけではなく、言語で世界を認識する能力と、そのベースになる非言語体験の量がどうしても必要になってきます。
当然、上記のようなベースがあった上で、ある論点に対する解を理解するためには、その論点に対するある程度の思考体験が必要になるわけです。
そして、文章とは結局記号ですから、それが指し示すものがわからない人が書物を読んでも、プリントされた絵としての文字を見ているに過ぎないことになるわけです。
そうするとね、どこからやり直すのがいいのか?どこからはじめればできるようになるのか?という疑問がわくでしょう。
それはね、どこからかというと、子供からです。子供は名前を覚えると、やたらと指を指して名前を言ったりするわけです。そこからやり直すと、相当情報処理能力が上がります。これは、実験済みです。
職場に行くまでに目に入るものをひたすらメモしてみてください。それを毎日続けます。するとね、いろいろと探すようになるんです。そうすると、自分がずっと同じ職場に通いながら、まったく風景を見ていなかったということに気づきます。
これをしばらくやると、世界を見る濃さ、経験の濃度のようなものが明らかに変わってきます。ぜひ、お試しください。
ここがわからないと、学ぶ意味もまったくわからんと思うのですが・・・。そういったことを理解してもらうために、先日、Twitterでつぶやいた内容を書きます。
①経験してないことはわからんから。象を見たことがない人は象を知らない。論点に対する答えの言葉を知ったとしても、それを知るに値する思考経験がない人はその答えを知らない。
②当然、類似の経験から未知の事象を知るよすがとしてアナロジーがあるが。アナロジーはある程度の経験量の蓄積がないと使えない。残念。
③インターネットに書いてある言葉が指し示すことを理解するだけの思考経験がない人が文章を読んだところでね・・・。どうにもならんのよ。ただの文字の羅列というか。その文字は絵みたいなもんだよ。
④文字の学習をやる前に、原体験を増やすというか、認知量を増やすというか。そういうことをやらんとね。見た景色を細かく記載するとかさ。見たものを全部文字にするとか。そんな小学生がやるようなことをいい年をした人にやらないといけない危機的状況。
解説していきます。まず、体験していない物事は知らない、それにはみなさん同意しますよね。シンガポールに行ったことがない人は、シンガポールがどんなんであるかは語れない。象を見たことがない人は、象がどういう動物であるかわからない。
よく、目の不自由な方が象に触った話の例が出てきます。足に触った人は足の特徴を言い、牙に触った人は牙の特徴を言う。象の全体像を体験していないと、ピントがずれたことをいってしまう。
それでね、この話はそのまんまアカデミックな論点、ビジネスの論点にもあてはまります。
哲学書を読んでもちんぷんかんぷんですよね。いまどきの学生は経済学の教科書を読んでもちんぷんかんぷんなようですが・・・。それは、それを理解するだけのベースの経験がないのです。
何がしかの記述内容を理解するためには、言語の操作能力だけではなく、言語で世界を認識する能力と、そのベースになる非言語体験の量がどうしても必要になってきます。
当然、上記のようなベースがあった上で、ある論点に対する解を理解するためには、その論点に対するある程度の思考体験が必要になるわけです。
そして、文章とは結局記号ですから、それが指し示すものがわからない人が書物を読んでも、プリントされた絵としての文字を見ているに過ぎないことになるわけです。
そうするとね、どこからやり直すのがいいのか?どこからはじめればできるようになるのか?という疑問がわくでしょう。
それはね、どこからかというと、子供からです。子供は名前を覚えると、やたらと指を指して名前を言ったりするわけです。そこからやり直すと、相当情報処理能力が上がります。これは、実験済みです。
職場に行くまでに目に入るものをひたすらメモしてみてください。それを毎日続けます。するとね、いろいろと探すようになるんです。そうすると、自分がずっと同じ職場に通いながら、まったく風景を見ていなかったということに気づきます。
これをしばらくやると、世界を見る濃さ、経験の濃度のようなものが明らかに変わってきます。ぜひ、お試しください。
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