ブログのほうが放置気味になっています。ごめんなさい。
で、今日は「気づき」って何?というお話です。
簡単に言えば、自分が無意識的にやっていること、無意識的に思っていること、などに気づくということです。
これだと芸がないので、無意識って何?と問うてみます。
すると、これは自動化されて、意識しなくてもできる処理のことです。サッカーで、そんなに意識しなくても、ボールを蹴るとか、トラップするとか、訓練するとできるようになりますね。
動きをいろいろやる中で、自動的にやれるようになる能力が人間にはあります。幼児は、意味不明の動きをたくさんやる中で、動けるようになってくるのです。
それでね、歩くのは、もう、ほぼ考えなくてもできますよね。
自動化された処理を、再び意識してみると、いろいろとわかることがあります。こういうのを気づきって言います。自分はこんなふうにやっていたんだ!と。
もうちょっと深くまで行きましょう。
無意識的にできるようになることは何か?と言えば、幼少期から、生きるために必要なことができるようになります。食べたり、飲んだり、歩いたり。
おっぱいを吸えない赤ちゃんは死ぬ恐れがありますよね。だから、目の前にさしだされたおっぱいを吸うことに夢中でしょう。だから、大人はおっぱいで育っていれば、無意識的に吸うという行為はできるはずです。
歩く、も生きていく上で必要ですよね。
走る、が生きていく上で必要な環境に育てば、普通に走れるようになります。木に登るが、生きていく上で必要な環境に育てば、木に登れるようになるでしょう。
アフリカの熱帯雨林などで育てば、相当木登りが得意な人になりそうです。
でね、自分が生きていく上で必要なことをやりまくる人は、ある意味で利己的、とも言えそうです。そりゃ、自分の生命維持にバイタルなことができるようになるんだから、利己的な部分もある。
ただ、集団の中にいるほうが、自分の生命維持に有利なのであれば、他人と協力できるようになる、というのもわかりますよね?
そうすると、無意識的に利己的になっているかもしれない部分には、集団から、「それはよくないよ」というフィードバックが働く可能性がありますよね?
そうすると、その抑制に従って、人は、無意識的に、集団に適応していきます。
その利己的というのと、集団適応的なこと、まあ、道徳的なことも集団適応的なことに含まれると思いますが、その統合が大人になってくると起こってくるわけですね。
己を利するものと、集団を利するものの統合が、ちゃんとできている人は減ってきたように思いますけどね。
でね、更に深く行ってみましょう。
その上で、アクションとフィードバックの繰り返しが、その無意識的処理を作っていくとすれば、それが少ない人は、無意識的な処理能力が低い人ということになります。
無意識的な処理能力が低いということは、気づこうとしても、無意識的な処理が少ないから、そもそも「気づき」も少ないわけです。
空気が読めない人、は自分が空気が読めないことに気づかないわけです。そもそも、空気を読む自動的な処理が形成されていないのです!
無意識的な処理能力を上げるにはどうするのか?
自然の中で、生命現象にバイタルなフィードバックに近いものが、多い環境に置く。これが1つ。
コミュニケーション密度の濃い集団の中において、フィードバックを多く受け取る。これが1つ。
この2つをやることがいいんですね。
これを一気にやる手段があります。そうです、遊びです(笑)。私がいつも言っていることに落ち着きましたね。気づきが云々とか、そういう研修をやっても、無意識的なプロセッシングの量が少ない子供にやっても無駄だということがわかりますでしょうか。
「自然の中でみんなで遊ぶ」の研修やりたいなら、是非、弊社にメールください。
結局、宣伝に落ち着きましたね。ごめんなさい。それでは、次回をお楽しみに。
で、今日は「気づき」って何?というお話です。
簡単に言えば、自分が無意識的にやっていること、無意識的に思っていること、などに気づくということです。
これだと芸がないので、無意識って何?と問うてみます。
すると、これは自動化されて、意識しなくてもできる処理のことです。サッカーで、そんなに意識しなくても、ボールを蹴るとか、トラップするとか、訓練するとできるようになりますね。
動きをいろいろやる中で、自動的にやれるようになる能力が人間にはあります。幼児は、意味不明の動きをたくさんやる中で、動けるようになってくるのです。
それでね、歩くのは、もう、ほぼ考えなくてもできますよね。
自動化された処理を、再び意識してみると、いろいろとわかることがあります。こういうのを気づきって言います。自分はこんなふうにやっていたんだ!と。
もうちょっと深くまで行きましょう。
無意識的にできるようになることは何か?と言えば、幼少期から、生きるために必要なことができるようになります。食べたり、飲んだり、歩いたり。
おっぱいを吸えない赤ちゃんは死ぬ恐れがありますよね。だから、目の前にさしだされたおっぱいを吸うことに夢中でしょう。だから、大人はおっぱいで育っていれば、無意識的に吸うという行為はできるはずです。
歩く、も生きていく上で必要ですよね。
走る、が生きていく上で必要な環境に育てば、普通に走れるようになります。木に登るが、生きていく上で必要な環境に育てば、木に登れるようになるでしょう。
アフリカの熱帯雨林などで育てば、相当木登りが得意な人になりそうです。
でね、自分が生きていく上で必要なことをやりまくる人は、ある意味で利己的、とも言えそうです。そりゃ、自分の生命維持にバイタルなことができるようになるんだから、利己的な部分もある。
ただ、集団の中にいるほうが、自分の生命維持に有利なのであれば、他人と協力できるようになる、というのもわかりますよね?
そうすると、無意識的に利己的になっているかもしれない部分には、集団から、「それはよくないよ」というフィードバックが働く可能性がありますよね?
そうすると、その抑制に従って、人は、無意識的に、集団に適応していきます。
その利己的というのと、集団適応的なこと、まあ、道徳的なことも集団適応的なことに含まれると思いますが、その統合が大人になってくると起こってくるわけですね。
己を利するものと、集団を利するものの統合が、ちゃんとできている人は減ってきたように思いますけどね。
でね、更に深く行ってみましょう。
その上で、アクションとフィードバックの繰り返しが、その無意識的処理を作っていくとすれば、それが少ない人は、無意識的な処理能力が低い人ということになります。
無意識的な処理能力が低いということは、気づこうとしても、無意識的な処理が少ないから、そもそも「気づき」も少ないわけです。
空気が読めない人、は自分が空気が読めないことに気づかないわけです。そもそも、空気を読む自動的な処理が形成されていないのです!
無意識的な処理能力を上げるにはどうするのか?
自然の中で、生命現象にバイタルなフィードバックに近いものが、多い環境に置く。これが1つ。
コミュニケーション密度の濃い集団の中において、フィードバックを多く受け取る。これが1つ。
この2つをやることがいいんですね。
これを一気にやる手段があります。そうです、遊びです(笑)。私がいつも言っていることに落ち着きましたね。気づきが云々とか、そういう研修をやっても、無意識的なプロセッシングの量が少ない子供にやっても無駄だということがわかりますでしょうか。
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結局、宣伝に落ち着きましたね。ごめんなさい。それでは、次回をお楽しみに。
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