こんばんは。伊藤です。
今日は本当に寒かったですね・・・。
さて、今日は強者と弱者の対立のお話です。
有名なニーチェのルサンチマン概念を知っていますか?
ニーチェは、グード=良いとは、
元々、強いという意味であった、と。
そして、シュレヒト=悪いは、元々は弱いという意味であった、と。
それが、「弱きことは幸いかな」というキリスト教によって、
「弱い=良い」という、価値の倒錯が起こった。
これね、これまでは系譜学の方法論とか、
ルサンチマンという事象だけが注目されてきたように
思いますけど、これを『強者と弱者の対立』として見ると、どうなるのか?
そのアナロジーで現代を捉えるとどうなるのか?
というところを少し考えてみましょう。
ニーチェはこの価値の倒錯を指摘することで、
強者を目指すべきだ、という主張をしています。
人は人を超えようとする、超人たるべし、という主張をしているわけです。
確かに、弱者の支配が行き過ぎると、
強くあろうと思うモチベーションが減退します。
すると、社会を変革する力、成長させる力のようなものが失われていく面がある。
だから、行き過ぎた弱者の支配はよろしくない。
でもね、それに対して、強者が強ければいいんだ!というふうになると、
弱者の誇りがどんどん失われる社会となってしまう。
弱者がすがることができる物語がないと、結局は、弱者が社会から零れ落ちていく。
それでは、社会が立ち行かなくなる。
私が思うのは、弱者と強者はそれなりの緊張関係を持ちながらも、
共存していくことが望ましいと思うわけです。
それでね、ここまでだとよくわからないと思うので、
最近の日本について少し考えてみましょう。
最近は、いわゆる格差社会と言われて、自殺者も多いといった状況です。
つまり、弱者が少し劣勢になってきている社会ではないかな?と。
でね、私が着目するのは、脱原発からネトウヨから、カルトまで、近年のよくわからない
小規模コミュニティー運動についてです。
これね、弱者が物語を求めているのではないかな?というふうに見えたりするのです。
これまでも書きましたが、いわゆる最近の教育は格差固定的です。
家庭教育、地域教育のレベルを直接的に反映するのが、いわゆるハイパーメリトクラシー教育です。
コミュニケーション能力などは、どうしても家庭教育レベルを反映し、それが公教育の場で行われるとすると、それは格差を拡大する要素を持ちます。
そして、学校の教室ではスクールカーストが固定化される。
コミュニケーション能力上位の人間が、上位者として振る舞い、恋愛などを謳歌し、
下位者はコミュ障として扱われる。そこに教師までが加担する。
下位者の資産額は非常に小さいことが多く、
上位者の資産額は大きいことが多いわけです。
東大に入る人の資産がでかくてでかくて、というのは
有名なお話ですね。
素朴な話としては、上位者が下位者に優しくあることは、
みんながうまくいくには大事です。
そのための教えとしては、ノブレスオブリージなどの概念があるわけです。
ただ、それは余裕があったら助けましょうが適切なのか、
それとも、弱者は救うべき!が適切なのか、たまに議論を呼びます。
でね、私の感覚では、その時の、強者と弱者の対立においてどちらが優位なのか?
によると思うのです。
弱者が優位ならば、強者は肩身が狭い雰囲気が形成されているはずなので、
強者は余裕があったら、弱者を助ければいいよ、でいいはずです。
強者が優位ならば、弱者の誇りが強く失われているはずなので、
強者は弱者を救うべき、であるべきです。
一億総中流の物語は、弱者を救う物語であったのではないでしょうか?
そして、ある意味で弱者に優しい世界が作られてきた。
その社会が行き詰まり始めた。00年代ぐらいでしょうか。
そうするとね、少しは自己責任論が強調されてもよかったと思います。
小泉改革はその気概を反映していたと思います。
でも、今、10年代に入って、弱者が転げ落ちていっているように見えます。
どの程度まで行けば行き過ぎなのか?はちょっと検証がいると思うんですけど。
強者は、この世界において、強きことを謳歌しているように見えます。
これに対する救いの物語は何だろう?と日本社会を見ると、
先にあげた、脱原発から、ネトウヨまで、いろいろな物語があるように見えます。
これが、全然大きくはなっていないところから見ると、まだまだ弱者への救いのニーズは
小さいかもしれません。
でもね、これが大きくなってきて、社会不安に近いところまで来ると、
新たな強い物語がまた必要なのではないかな?と。
ニーチェの永遠回帰と超人の物語は、強者のためのものだったと思います。
もうしばらくして、格差がもっと拡大して、多くの人が坂道を転げ落ちた時に、
弱者に向けた物語が本当に必要になり、それが出てくるのかもしれません。
ひょっとしたら、アーリア人は素晴らしい!と言いつつ、劣等民族を攻撃する物語かもしれませんし、
ひょっとしたら、弱きことは幸いかな、という物語かもしれませんし、
ひょっとしたら、所得が倍増するという物語かもしれません。
今は、強者が人生を謳歌しているように見えます。
しばらくすれば、強者が撃ち落される物語が出てくるのでは?
というお話ですね。心配しなくても、経済混乱が起これば、
今はプチリッチな資産数億円の人たちはみんな没落するんですけどね・・・。
その時、弱者の怨念はどこに行くんでしょうね・・・。
それを浄化する物語も必要ではないかな、と思いますけど。
それでは今日はこのあたりで。
次回をお楽しみに。
今日は本当に寒かったですね・・・。
さて、今日は強者と弱者の対立のお話です。
有名なニーチェのルサンチマン概念を知っていますか?
ニーチェは、グード=良いとは、
元々、強いという意味であった、と。
そして、シュレヒト=悪いは、元々は弱いという意味であった、と。
それが、「弱きことは幸いかな」というキリスト教によって、
「弱い=良い」という、価値の倒錯が起こった。
これね、これまでは系譜学の方法論とか、
ルサンチマンという事象だけが注目されてきたように
思いますけど、これを『強者と弱者の対立』として見ると、どうなるのか?
そのアナロジーで現代を捉えるとどうなるのか?
というところを少し考えてみましょう。
ニーチェはこの価値の倒錯を指摘することで、
強者を目指すべきだ、という主張をしています。
人は人を超えようとする、超人たるべし、という主張をしているわけです。
確かに、弱者の支配が行き過ぎると、
強くあろうと思うモチベーションが減退します。
すると、社会を変革する力、成長させる力のようなものが失われていく面がある。
だから、行き過ぎた弱者の支配はよろしくない。
でもね、それに対して、強者が強ければいいんだ!というふうになると、
弱者の誇りがどんどん失われる社会となってしまう。
弱者がすがることができる物語がないと、結局は、弱者が社会から零れ落ちていく。
それでは、社会が立ち行かなくなる。
私が思うのは、弱者と強者はそれなりの緊張関係を持ちながらも、
共存していくことが望ましいと思うわけです。
それでね、ここまでだとよくわからないと思うので、
最近の日本について少し考えてみましょう。
最近は、いわゆる格差社会と言われて、自殺者も多いといった状況です。
つまり、弱者が少し劣勢になってきている社会ではないかな?と。
でね、私が着目するのは、脱原発からネトウヨから、カルトまで、近年のよくわからない
小規模コミュニティー運動についてです。
これね、弱者が物語を求めているのではないかな?というふうに見えたりするのです。
これまでも書きましたが、いわゆる最近の教育は格差固定的です。
家庭教育、地域教育のレベルを直接的に反映するのが、いわゆるハイパーメリトクラシー教育です。
コミュニケーション能力などは、どうしても家庭教育レベルを反映し、それが公教育の場で行われるとすると、それは格差を拡大する要素を持ちます。
そして、学校の教室ではスクールカーストが固定化される。
コミュニケーション能力上位の人間が、上位者として振る舞い、恋愛などを謳歌し、
下位者はコミュ障として扱われる。そこに教師までが加担する。
下位者の資産額は非常に小さいことが多く、
上位者の資産額は大きいことが多いわけです。
東大に入る人の資産がでかくてでかくて、というのは
有名なお話ですね。
素朴な話としては、上位者が下位者に優しくあることは、
みんながうまくいくには大事です。
そのための教えとしては、ノブレスオブリージなどの概念があるわけです。
ただ、それは余裕があったら助けましょうが適切なのか、
それとも、弱者は救うべき!が適切なのか、たまに議論を呼びます。
でね、私の感覚では、その時の、強者と弱者の対立においてどちらが優位なのか?
によると思うのです。
弱者が優位ならば、強者は肩身が狭い雰囲気が形成されているはずなので、
強者は余裕があったら、弱者を助ければいいよ、でいいはずです。
強者が優位ならば、弱者の誇りが強く失われているはずなので、
強者は弱者を救うべき、であるべきです。
一億総中流の物語は、弱者を救う物語であったのではないでしょうか?
そして、ある意味で弱者に優しい世界が作られてきた。
その社会が行き詰まり始めた。00年代ぐらいでしょうか。
そうするとね、少しは自己責任論が強調されてもよかったと思います。
小泉改革はその気概を反映していたと思います。
でも、今、10年代に入って、弱者が転げ落ちていっているように見えます。
どの程度まで行けば行き過ぎなのか?はちょっと検証がいると思うんですけど。
強者は、この世界において、強きことを謳歌しているように見えます。
これに対する救いの物語は何だろう?と日本社会を見ると、
先にあげた、脱原発から、ネトウヨまで、いろいろな物語があるように見えます。
これが、全然大きくはなっていないところから見ると、まだまだ弱者への救いのニーズは
小さいかもしれません。
でもね、これが大きくなってきて、社会不安に近いところまで来ると、
新たな強い物語がまた必要なのではないかな?と。
ニーチェの永遠回帰と超人の物語は、強者のためのものだったと思います。
もうしばらくして、格差がもっと拡大して、多くの人が坂道を転げ落ちた時に、
弱者に向けた物語が本当に必要になり、それが出てくるのかもしれません。
ひょっとしたら、アーリア人は素晴らしい!と言いつつ、劣等民族を攻撃する物語かもしれませんし、
ひょっとしたら、弱きことは幸いかな、という物語かもしれませんし、
ひょっとしたら、所得が倍増するという物語かもしれません。
今は、強者が人生を謳歌しているように見えます。
しばらくすれば、強者が撃ち落される物語が出てくるのでは?
というお話ですね。心配しなくても、経済混乱が起これば、
今はプチリッチな資産数億円の人たちはみんな没落するんですけどね・・・。
その時、弱者の怨念はどこに行くんでしょうね・・・。
それを浄化する物語も必要ではないかな、と思いますけど。
それでは今日はこのあたりで。
次回をお楽しみに。
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