おはようございます。最近、ブログがあまり更新できていないですね。
思ったことがあっても、忘れるんですね。書く時間がない。言い訳ですね。いけません。
今日は説教くさいことを書きます。大学で教えていて思うのは、学生が「勉強」という言葉で表現していることは私が思う「勉強」ではないことが多いんだなあ、ということです。
今時は、テストで点をちょこちょこ取れるようにすることが勉強のようです。そうするとね、ちょっとしたことを知れば、ちょっとわかって、それでいい、という感覚になっている人が多いんですよね。
安易な「ビジネス文書の書き方」や「ものの言い方」みたいなものが売れる時代ですので、学生を笑えません。これはビジネスマンの多くにも共通する傾向となってきているようです。
たいていの人は、人に言われたことをこなすだけのオペレーションをやるだけの人ですので、いいのかもしれません。ただね、上位大学に通っている人はこれでは困ってしまうのです。
自分で何をすべきか?考えられる人になることが望まれています。これは自分勝手に何をすべきか?を決めるということではなく、既にある物事、他人、組織などが影響し合って成立している社会の中で、何をすれば自分の目的にかなう結果となるか?を考えられる人になることを望まれているということです。
そのためには、目に見える物事、安直なことだけでなく、目に見えないことが人間に影響していることを知らねばなりません。
理性万能主義で、一生懸命世界を理性の力で探求してきた西欧人が、「構造主義」「無意識」のようなものに出会って受けた衝撃というものは大きいのですね。
人間は理性ですべてを決めているわけでもない。見えないもの、気づかないことに大きな影響を受けている。
今では、その構造主義や無意識は、行動経済学や認知主義といったものに置き換わっているように思います。人は、そのレベルによって、見えるもの、気づくことが完全に違い、その見える領域、気づく領域を増やしていくことが望まれる。
まさに、その活動こそが勉強なんですね。
人の認知はスカスカで、一部だけが強調され、見ていないのに見ているかのような気になっていることが指摘され始めたのは90年代ぐらいでしょうか。有名なフレーム理論とかそれを現実的に支える脳機能がわかった。「つぎはぎだらけの意識」という指摘がなされました。
月はでかく見えますよね。でも、見た感じほどのでかさではないのです。みかんを1メートル先に置いた時と、2メートル先に置いた時で、見た目の大きさはほとんど変わらずに見えます。本当はすごく小さくなって網膜に映っているはずなのに。
自分が見ている世界がすごく恣意的であることに気づく瞬間は、まさに衝撃的です。こんなことを知らなくても、自分の研究対象をひたすら考えていれば、いつか到達するのですが、大抵の人は気づかないままに制限時間を迎えます。
そして、自分の行動が、見えないものに誘引されている。経済学部であれば誰でも知っているインセンティブです。これも、社会が研究に入ってくる人であれば、ずーっと社会現象を見ていれば、いつかは気づきますが、今は教科書のはじめの方に書いてありますから、そんなん当たり前だと思うでしょう。
見えないものを見えるようになり、自分たちの行動をいつの間にか決めている外部の力に気づくこと。これに気づくことが初等教育ぐらいの目的に入れてもいいぐらいなんですが、実感をもってわかる人は少数派です。
でも、ここに到達するために学ぶんですよ。第一段階ぐらいですけど。
どうもね、初等教育の教育に携わっている人が、あまりに学問から遠い方々が多いせいか、誤った理性主義や、誤った情緒主義みたいなものに毒された子供が目の前にたくさんやってくるんですね。
その解毒から始めないといけない人の身になってよ、と思うわけですが、なかなか困ったことです。
確かに、毎週毎週小テストがあって、その穴埋めをやることが勉強だと思い込まされた人たちには、見えないものがあり、いつの間にか自分の行動は決められていることに気づきもしないでしょう。
そして、自分の能力を上げ、見えないものが見えるようになると、自分の「考え」が完全に変わって行ってしまうことにも気づきもしないでしょう。
固定的な価値観を情緒的に素晴らしいものだ、固有なものだと言う人が最近では大学にすらいますよね。笑ってしまいますが、仕方のないことなのでしょう。
人は学ぶと、価値観は流れていく。流転するのです。人の「個性」などというものは固定的ではないのです。何かしらの固定を子供に強いる人が多くて困ります。俗流心理学の弊害でしょうね。
人が見えるものが変われば行動が変わります。行動が変われば、成果が変わります。
見えるものを規定しているのが、価値観です。
何かしら新しい物事があることを言語で提示されれば、人は見える物事が変わっていく。自分が変わっていく。
それが勉強ですよね。
そして、自分を制約する周囲との関係や、もっと大きな物事との関係に気づいていく。構造やシステムに気づいていく。
そうすると、何かしらの「やりたいこと」が固定的に自分の中にあるとおっしゃる方もすさまじいわけですが、今日は長くなったのでやめましょう。
自分が変わらずに済む勉強なんて勉強ではありません。自分は変わらずに何かの武器を身に着けるとおっしゃる勉強は、どうしようもない大人を生産しているように見えますが、大丈夫ですか?
今日は多少強烈な表現で書きましたが、こんな感じで。
それでは次回をお楽しみに。
思ったことがあっても、忘れるんですね。書く時間がない。言い訳ですね。いけません。
今日は説教くさいことを書きます。大学で教えていて思うのは、学生が「勉強」という言葉で表現していることは私が思う「勉強」ではないことが多いんだなあ、ということです。
今時は、テストで点をちょこちょこ取れるようにすることが勉強のようです。そうするとね、ちょっとしたことを知れば、ちょっとわかって、それでいい、という感覚になっている人が多いんですよね。
安易な「ビジネス文書の書き方」や「ものの言い方」みたいなものが売れる時代ですので、学生を笑えません。これはビジネスマンの多くにも共通する傾向となってきているようです。
たいていの人は、人に言われたことをこなすだけのオペレーションをやるだけの人ですので、いいのかもしれません。ただね、上位大学に通っている人はこれでは困ってしまうのです。
自分で何をすべきか?考えられる人になることが望まれています。これは自分勝手に何をすべきか?を決めるということではなく、既にある物事、他人、組織などが影響し合って成立している社会の中で、何をすれば自分の目的にかなう結果となるか?を考えられる人になることを望まれているということです。
そのためには、目に見える物事、安直なことだけでなく、目に見えないことが人間に影響していることを知らねばなりません。
理性万能主義で、一生懸命世界を理性の力で探求してきた西欧人が、「構造主義」「無意識」のようなものに出会って受けた衝撃というものは大きいのですね。
人間は理性ですべてを決めているわけでもない。見えないもの、気づかないことに大きな影響を受けている。
今では、その構造主義や無意識は、行動経済学や認知主義といったものに置き換わっているように思います。人は、そのレベルによって、見えるもの、気づくことが完全に違い、その見える領域、気づく領域を増やしていくことが望まれる。
まさに、その活動こそが勉強なんですね。
人の認知はスカスカで、一部だけが強調され、見ていないのに見ているかのような気になっていることが指摘され始めたのは90年代ぐらいでしょうか。有名なフレーム理論とかそれを現実的に支える脳機能がわかった。「つぎはぎだらけの意識」という指摘がなされました。
月はでかく見えますよね。でも、見た感じほどのでかさではないのです。みかんを1メートル先に置いた時と、2メートル先に置いた時で、見た目の大きさはほとんど変わらずに見えます。本当はすごく小さくなって網膜に映っているはずなのに。
自分が見ている世界がすごく恣意的であることに気づく瞬間は、まさに衝撃的です。こんなことを知らなくても、自分の研究対象をひたすら考えていれば、いつか到達するのですが、大抵の人は気づかないままに制限時間を迎えます。
そして、自分の行動が、見えないものに誘引されている。経済学部であれば誰でも知っているインセンティブです。これも、社会が研究に入ってくる人であれば、ずーっと社会現象を見ていれば、いつかは気づきますが、今は教科書のはじめの方に書いてありますから、そんなん当たり前だと思うでしょう。
見えないものを見えるようになり、自分たちの行動をいつの間にか決めている外部の力に気づくこと。これに気づくことが初等教育ぐらいの目的に入れてもいいぐらいなんですが、実感をもってわかる人は少数派です。
でも、ここに到達するために学ぶんですよ。第一段階ぐらいですけど。
どうもね、初等教育の教育に携わっている人が、あまりに学問から遠い方々が多いせいか、誤った理性主義や、誤った情緒主義みたいなものに毒された子供が目の前にたくさんやってくるんですね。
その解毒から始めないといけない人の身になってよ、と思うわけですが、なかなか困ったことです。
確かに、毎週毎週小テストがあって、その穴埋めをやることが勉強だと思い込まされた人たちには、見えないものがあり、いつの間にか自分の行動は決められていることに気づきもしないでしょう。
そして、自分の能力を上げ、見えないものが見えるようになると、自分の「考え」が完全に変わって行ってしまうことにも気づきもしないでしょう。
固定的な価値観を情緒的に素晴らしいものだ、固有なものだと言う人が最近では大学にすらいますよね。笑ってしまいますが、仕方のないことなのでしょう。
人は学ぶと、価値観は流れていく。流転するのです。人の「個性」などというものは固定的ではないのです。何かしらの固定を子供に強いる人が多くて困ります。俗流心理学の弊害でしょうね。
人が見えるものが変われば行動が変わります。行動が変われば、成果が変わります。
見えるものを規定しているのが、価値観です。
何かしら新しい物事があることを言語で提示されれば、人は見える物事が変わっていく。自分が変わっていく。
それが勉強ですよね。
そして、自分を制約する周囲との関係や、もっと大きな物事との関係に気づいていく。構造やシステムに気づいていく。
そうすると、何かしらの「やりたいこと」が固定的に自分の中にあるとおっしゃる方もすさまじいわけですが、今日は長くなったのでやめましょう。
自分が変わらずに済む勉強なんて勉強ではありません。自分は変わらずに何かの武器を身に着けるとおっしゃる勉強は、どうしようもない大人を生産しているように見えますが、大丈夫ですか?
今日は多少強烈な表現で書きましたが、こんな感じで。
それでは次回をお楽しみに。
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