おはようございます。伊藤です。
さて、今日はコミュニケーションについて少し書きます。
主にトマセロの↓をベースに書いてみます。
今の認知言語学の流行りでは、
音声コミュニケーションは人間固有だ、という考え方になっています。
動物の音声コミュニケーションは相互的でないケースが多そうだ、と。
私はどちらかというと、犬がわんわん吠えあうのは、相互的なケースがあるように思うんですけどね・・・。
ただ、類人猿などに顕著ですが、鳴き声は相互に情報のキャッチボールをするというよりは、危険を一方的に知らせるような役割が大きいようです。
それよりも、身振り、手振りなどによるコミュニケーションがコンテクストを伴って、意味合いを理解するのに重要だ、と。
いつも言う話で言うと、指差しや物まねが、
文脈を伴う情報交換では重要になる。
それでね、自閉症児への着目というものが、この文脈的コミュニケーションの研究では大事になってきているのですが、身振り、手振りを更に抽象化しないと、言語を使った相互コミュニケーションで文脈を読み合うような形は難しいんですよね。
自閉症の人は、オウムのように言葉は覚えられますが、
言葉が示すもの、示さないものの組み合わせから文脈を読むといったことができないわけです。
それは、他者が意図を持った主体であることがわからないことに起因する。意図があると思えば、言っていること、身振りから意図を読み取るという努力を自然とするわけですからね。
それでね、発達環境が一人っ子が多くなって厳しくなってきている。地域の子供集団も崩壊してきているので、他者とのコミュニケーション量が圧倒的に低下している。そうすると、他人の意図を読む能力は衰えている。
それによって社会としては、同調圧力が維持できなくなる面があります。日本は他人の意図をしっかり読み合って、「察する」社会です。察してなるべく争いを起こさない。そういう社会ですが、それがいいか悪いかは別にして持続可能ではなくなる。まあ、企業としては一大事ですけどね。日本的コードに満ち満ちた企業が多いですから。
また、能力開発としては、人の意図を読む訓練をさせないといけないことになる。結局、意図を認知する能力と、操作能力の大きく2つが人間の社会適応能力です。そもそも、意図が読めないと、人の考えを察することができないと社会適応できないわけです。これも企業としては大問題です・・・。
でね、ここまで言っていることが意味するのは、人の意図を読む訓練をするとして、言語を伴って行うと高度になってしまう。今の若者はそんな高度なことはできない。だから、能力を伸ばすとして、言語を使わずに行う意図を読む訓練をしたほうが、やりやすいということがわかってくる。
つまり、身振り、手振りで文脈を読むと言う訓練をひたすらやったほうが、いわゆる「コミュニケーションの能力」を上げるには意味がありますよ、というお話です。
発話は発話で、また別の行為という側面があるので、発話を伴ってコミュニケーションの訓練をするのは、ちょっと高度だから、ついてこれない人も増えてるだろうなあ、と。
発話はコミュニケーションと分離できてしまう面があるので、発話に問題がある時にはまた別のことをしないといけない。
だから、別建てで、音読をひたすらやらせて発話の楽しさみたいなものは教えて、文脈を読むようなコミュニケーションの訓練とは切り離してみる。
そういった考え方でやったほうがいいだろうなあ、でも、普通の企業の人事の人は、ここまで若い人が社会適応上やばくなっているなんてわからんだろうなあ、と思う今日この頃です。
それでは次回をお楽しみに。
さて、今日はコミュニケーションについて少し書きます。
主にトマセロの↓をベースに書いてみます。
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今の認知言語学の流行りでは、
音声コミュニケーションは人間固有だ、という考え方になっています。
動物の音声コミュニケーションは相互的でないケースが多そうだ、と。
私はどちらかというと、犬がわんわん吠えあうのは、相互的なケースがあるように思うんですけどね・・・。
ただ、類人猿などに顕著ですが、鳴き声は相互に情報のキャッチボールをするというよりは、危険を一方的に知らせるような役割が大きいようです。
それよりも、身振り、手振りなどによるコミュニケーションがコンテクストを伴って、意味合いを理解するのに重要だ、と。
いつも言う話で言うと、指差しや物まねが、
文脈を伴う情報交換では重要になる。
それでね、自閉症児への着目というものが、この文脈的コミュニケーションの研究では大事になってきているのですが、身振り、手振りを更に抽象化しないと、言語を使った相互コミュニケーションで文脈を読み合うような形は難しいんですよね。
自閉症の人は、オウムのように言葉は覚えられますが、
言葉が示すもの、示さないものの組み合わせから文脈を読むといったことができないわけです。
それは、他者が意図を持った主体であることがわからないことに起因する。意図があると思えば、言っていること、身振りから意図を読み取るという努力を自然とするわけですからね。
それでね、発達環境が一人っ子が多くなって厳しくなってきている。地域の子供集団も崩壊してきているので、他者とのコミュニケーション量が圧倒的に低下している。そうすると、他人の意図を読む能力は衰えている。
それによって社会としては、同調圧力が維持できなくなる面があります。日本は他人の意図をしっかり読み合って、「察する」社会です。察してなるべく争いを起こさない。そういう社会ですが、それがいいか悪いかは別にして持続可能ではなくなる。まあ、企業としては一大事ですけどね。日本的コードに満ち満ちた企業が多いですから。
また、能力開発としては、人の意図を読む訓練をさせないといけないことになる。結局、意図を認知する能力と、操作能力の大きく2つが人間の社会適応能力です。そもそも、意図が読めないと、人の考えを察することができないと社会適応できないわけです。これも企業としては大問題です・・・。
でね、ここまで言っていることが意味するのは、人の意図を読む訓練をするとして、言語を伴って行うと高度になってしまう。今の若者はそんな高度なことはできない。だから、能力を伸ばすとして、言語を使わずに行う意図を読む訓練をしたほうが、やりやすいということがわかってくる。
つまり、身振り、手振りで文脈を読むと言う訓練をひたすらやったほうが、いわゆる「コミュニケーションの能力」を上げるには意味がありますよ、というお話です。
発話は発話で、また別の行為という側面があるので、発話を伴ってコミュニケーションの訓練をするのは、ちょっと高度だから、ついてこれない人も増えてるだろうなあ、と。
発話はコミュニケーションと分離できてしまう面があるので、発話に問題がある時にはまた別のことをしないといけない。
だから、別建てで、音読をひたすらやらせて発話の楽しさみたいなものは教えて、文脈を読むようなコミュニケーションの訓練とは切り離してみる。
そういった考え方でやったほうがいいだろうなあ、でも、普通の企業の人事の人は、ここまで若い人が社会適応上やばくなっているなんてわからんだろうなあ、と思う今日この頃です。
それでは次回をお楽しみに。
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