おはようございます。伊藤です。
花粉がしんどいですが、暖かくなってきて一安心だったのですが、
また今日は寒いようですね。
さて、今日は久しぶりに哲学よりの話を書きます。
ウィトゲンシュタインの著作は遺稿集を含めて
全部読んだのですが、とても示唆に富んでいます。
ええ、厳密な意味が完全にわかったら狂人ですからね。
示唆に留める形で読むもんですよ。はい。
「論理哲学論考」で言語の限界について考えます。
最後の言葉があまりに有名ですね。
「語り得ぬものには沈黙しなくてはならない。」
世界を記述する言語の限界が人間の思考の限界だと
考えるわけです。そして、倫理などの価値判断はその外にある、と。
普通に考えてこれは明らかに間違っていますが、ウィトゲンシュタインはその奇行から言って、明らかにアスペルガーですよね・・・。
彼は空気を読めるタイプではない。文脈もうまく読めない。言葉は言葉通りにしか解釈できない。その世界が居心地がよいわけです。
良寛法師もアスペルガーだったということで、
その奇行が有名です。
子どもとかくれんぼをしたら、「見つかるまで隠れていないとだめだ」と言われ、次の日も隠れていたというお話です。まさに言葉通りに解釈していたのですね。
で、その彼が「語り得ぬものには沈黙しなければならない」と言うから、また、面白いわけです。
しかし、彼のすごいところは、語り得ることと思考の関係を徹底して考えたことです。
私がよく使う「事実と事態の関係」、「思考とは事態の想定」も
ウィトゲンシュタインから持ってきています。
論考を書き終えて、全ての哲学問題は疑似命題だという結論をもとに、
ウィトゲンシュタインは哲学をいったんやめるわけですが、また哲学の世界に戻ります。
「論考」において、倫理の問題、つまり価値判断などの問題は世界の外にあるから、言語で扱えない。無駄な命題だから、ナンセンスな答えしかないと言ったわけですが、やっぱり言語を使って、その世界の外側に挑もうとして、いろいろやり始めるわけです。
ここで、後期ウィトゲンシュタインは文法を問題にしたと言う人もいますが、
文法を問題にしたのは、言葉が暗黙に想定する言葉通りの意味以上の情報を含むことを論点にするためだと思います。「論考」で演繹的に答えが出ること以外、無駄だと言ったわけですが、それを無駄にすると日常の人間の理解自体が、ナンセンスなものに支えられていることになってしまいますからね。
ここから、語用論の領域に踏み込んでいきます。
いわゆる文脈、コンテクスト、意味合いというものがあるということを
検討するのです。
こんなもん、健常者にとっては当たり前なのですが、
言葉を言葉通りに捉えるウィトゲンシュタインにしてみれば、極めて奇異なのです。
かくれんぼで見つかるまで隠れていなくてはいけないという言葉を文字通りにとるのが
自閉症、アスペルガーですが、「時間がたったら出てきてもいいだろう」と捉えるのが健常者です。
この時間がたったら出てきてもいいという推論は、言葉の中からだけでは出てきません。
暗黙の了解というやつです。
この考える枠組みを見てみると、非常に示唆的です。
怒られそうですが、気分的にサマリーを書くと、
世界は事実でできていて、我々は事実理解のために像を形成し、その像の写し取り方に論理という形式があって、像の可能性を検討するのが思考であり、現実との対応で正しいか間違っているかが定まる。自分が考えうる事実から演繹的に世界の全体像が定まる。その外側に価値判断の問題、人間の生の問題などは存在するが、それは正しくは語り得ない。語り得ぬものには沈黙しなくてはならない。
・・・、ぐらいでしょうか。
後期の最後は「言語ゲーム」という言語観にウィトゲンシュタインは至ります。
言語が意味する物事は、人々の経験によって、言語の使用の意味の変化に基づいて
変わっていく、参加者の合意が全体ルールの変更をもたらすと言うのです。
これは、マーケットが変わっていくのに非常に似ています。
人々は日々言語を使用しているけど、使用しているうちに意味がずれてくる。変わってくる。
人々は日々商品を使用しているけど、使用しているうちに意味がずれてくる。変わってくる。
商品が欲しい、使いたいと思って買ったけど、使っているうちに人が変わってくる。
そうすると、欲しいと思う商品が変わってくる。
これは価値判断の変化です。
商品の使用経験、所有経験によって、全体の価値判断が変わり、個別商品の意味合いがどんどん変わってくる。
だから、売れるものは移り変わる。
私の感覚では、この枠組みが見えているか見えていないかが、
企画ができる人か、そうでない人かの違いだと思います。
別に哲学的な言葉遣いで理解している必要はないですが、
感覚的に人の価値判断が変わってくる、その変化は商品使用経験、所有経験、購買経験などに依存している。
ということが見えているかが大事です。
ウィトゲンシュタインは言語の考察からこういうことを問題にしますし、
マルクスは商品価値の考察からこういうことを問題にしますね。
長く書いてしまったので今日はこのあたりで。
次回をお楽しみに。
花粉がしんどいですが、暖かくなってきて一安心だったのですが、
また今日は寒いようですね。
さて、今日は久しぶりに哲学よりの話を書きます。
ウィトゲンシュタインの著作は遺稿集を含めて
全部読んだのですが、とても示唆に富んでいます。
ええ、厳密な意味が完全にわかったら狂人ですからね。
示唆に留める形で読むもんですよ。はい。
「論理哲学論考」で言語の限界について考えます。
最後の言葉があまりに有名ですね。
「語り得ぬものには沈黙しなくてはならない。」
世界を記述する言語の限界が人間の思考の限界だと
考えるわけです。そして、倫理などの価値判断はその外にある、と。
普通に考えてこれは明らかに間違っていますが、ウィトゲンシュタインはその奇行から言って、明らかにアスペルガーですよね・・・。
彼は空気を読めるタイプではない。文脈もうまく読めない。言葉は言葉通りにしか解釈できない。その世界が居心地がよいわけです。
良寛法師もアスペルガーだったということで、
その奇行が有名です。
子どもとかくれんぼをしたら、「見つかるまで隠れていないとだめだ」と言われ、次の日も隠れていたというお話です。まさに言葉通りに解釈していたのですね。
で、その彼が「語り得ぬものには沈黙しなければならない」と言うから、また、面白いわけです。
しかし、彼のすごいところは、語り得ることと思考の関係を徹底して考えたことです。
私がよく使う「事実と事態の関係」、「思考とは事態の想定」も
ウィトゲンシュタインから持ってきています。
論考を書き終えて、全ての哲学問題は疑似命題だという結論をもとに、
ウィトゲンシュタインは哲学をいったんやめるわけですが、また哲学の世界に戻ります。
「論考」において、倫理の問題、つまり価値判断などの問題は世界の外にあるから、言語で扱えない。無駄な命題だから、ナンセンスな答えしかないと言ったわけですが、やっぱり言語を使って、その世界の外側に挑もうとして、いろいろやり始めるわけです。
ここで、後期ウィトゲンシュタインは文法を問題にしたと言う人もいますが、
文法を問題にしたのは、言葉が暗黙に想定する言葉通りの意味以上の情報を含むことを論点にするためだと思います。「論考」で演繹的に答えが出ること以外、無駄だと言ったわけですが、それを無駄にすると日常の人間の理解自体が、ナンセンスなものに支えられていることになってしまいますからね。
ここから、語用論の領域に踏み込んでいきます。
いわゆる文脈、コンテクスト、意味合いというものがあるということを
検討するのです。
こんなもん、健常者にとっては当たり前なのですが、
言葉を言葉通りに捉えるウィトゲンシュタインにしてみれば、極めて奇異なのです。
かくれんぼで見つかるまで隠れていなくてはいけないという言葉を文字通りにとるのが
自閉症、アスペルガーですが、「時間がたったら出てきてもいいだろう」と捉えるのが健常者です。
この時間がたったら出てきてもいいという推論は、言葉の中からだけでは出てきません。
暗黙の了解というやつです。
この考える枠組みを見てみると、非常に示唆的です。
怒られそうですが、気分的にサマリーを書くと、
世界は事実でできていて、我々は事実理解のために像を形成し、その像の写し取り方に論理という形式があって、像の可能性を検討するのが思考であり、現実との対応で正しいか間違っているかが定まる。自分が考えうる事実から演繹的に世界の全体像が定まる。その外側に価値判断の問題、人間の生の問題などは存在するが、それは正しくは語り得ない。語り得ぬものには沈黙しなくてはならない。
・・・、ぐらいでしょうか。
後期の最後は「言語ゲーム」という言語観にウィトゲンシュタインは至ります。
言語が意味する物事は、人々の経験によって、言語の使用の意味の変化に基づいて
変わっていく、参加者の合意が全体ルールの変更をもたらすと言うのです。
これは、マーケットが変わっていくのに非常に似ています。
人々は日々言語を使用しているけど、使用しているうちに意味がずれてくる。変わってくる。
人々は日々商品を使用しているけど、使用しているうちに意味がずれてくる。変わってくる。
商品が欲しい、使いたいと思って買ったけど、使っているうちに人が変わってくる。
そうすると、欲しいと思う商品が変わってくる。
これは価値判断の変化です。
商品の使用経験、所有経験によって、全体の価値判断が変わり、個別商品の意味合いがどんどん変わってくる。
だから、売れるものは移り変わる。
私の感覚では、この枠組みが見えているか見えていないかが、
企画ができる人か、そうでない人かの違いだと思います。
別に哲学的な言葉遣いで理解している必要はないですが、
感覚的に人の価値判断が変わってくる、その変化は商品使用経験、所有経験、購買経験などに依存している。
ということが見えているかが大事です。
ウィトゲンシュタインは言語の考察からこういうことを問題にしますし、
マルクスは商品価値の考察からこういうことを問題にしますね。
長く書いてしまったので今日はこのあたりで。
次回をお楽しみに。
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