おはようございます。伊藤です。
景気が良くなって、失業率が下がるのはいいのですが、
売り場の接客クオリティがどんどん下がっていくのは見ていてすごいと思います。
もはや売り場の人が敬語すらしゃべらなくなってきていますね。
さて、今日は価値について書いてみます。
何度か労働価値説と主観価値説については書きました。
マルクスはここで失敗して、破綻しています。
労働者の労働時間が価値の源泉であるとすると、
いらんもんを作り続けても価値なのか?という問いに答えられなくなります。
洗濯板を100万枚作ったとして買う人がいなければそれは価値ではない。
それに100万時間かけたとして、全く意味がない。すると、買う人の主観が価値を決めるわけです。
マス商材の場合は、それが国民的なレベルで共通性があるということです。
みんなご飯は食べるので、「味ぽん」は買うとかね。
それを、テレビで見たりすると、欲しくなるとか。
みんなが「味ぽん」を使っているのを見ると、自分も欲しくなっちゃうとかね。
その「欲しい」というのは個別性を持つけれど、ある程度の共通性も持っている。
ある程度の共通性がなければビジネスなんて成り立ちませんよね。
その共通する「欲しい」の大きさが市場の大きさなわけです。
何かがたまたま売れたとすると、誰かがそれを欲しいと思ったのです。
それに共通性があれば、ビジネスになる。
その誰かの後ろに同じ欲しいを持った人が何人いるのか?がいわゆる市場規模の考え方であり、
同じ欲しいに対して、同じ商品を提供できるのか?というところが「ビジネスシステム」「価値の複製」の論点なわけです。
その共通性が大きくなるのならば、企業は大きくなり、そうでなければ大きくならない。
その共通性が途方もなく大きいのがマス商材なわけです。
テレビはみんなが見ていましたが、
みんなが見るものに、みんなが欲しそうなものを流して、みんなが行く売場に置く。
このシステムが出来上がり、ここに乗っかれる会社がナショナルカンパニーになっていく。
また、その共通性が大きくなったとしても、同じことができる企業がたくさん出てくると、自社は大きくなりにくい。競合の問題がある。
誰でもできることでは、なかなかお客さんの支持を得ることを続けられないのは、普通に納得が行く話ではあります。じゃあ、どうするかと言えば、価値を大きくし続けたり、価値提供のコストを競合に比較して小さくしたりといったことをする。相対的低コストとポーターが言う論点です。
みんなが要ると思う何かを供給するコストが下がる。これは社会的には非常にいいことですからね。がんがん相対的に低コストが実現されるのはいいことです。
ただね、人間がやれることには限りがあるので、クオリティを保って低コストというのは、限界がある。ただ、お客さんが価値と思うことはもっとよくして、価値と思っていない部分はコストを削ればいいという、選択の問題がある。これを指摘したのがブルーオーシャン戦略ですよね。
ただ、言うほどうまくはいかないでしょう。お客さんが価値だと思う部分をどう測るかの問題や、無意識的な部分で価値貢献していた部分を削るケースが出てきますからね。
だから、高付加価値と低コストの両立は可能だ!もけっこう眉唾だと思ったほうがいいとは思います。理論上あり得ることは認めますけどね。
あと、最近の流行りとしては、「物質的充足から精神的充足へ」でしょうか。これも言い尽くされてはいると思いますが、よくある間違いだと思うのは、精神的充足を付加するというような考え方です。
普通に考えれば、精神的充足なしにこれまで買っていたというのは嘘くさいですよね。車はシグナリングが指摘される前からステータスシンボルです。何も物質的充足だけを求めて車を買っていたわけではない。
ブランドものの服でもそうです。
だから、より正しいのは、機能的な部分にばかり目が行っていた企業側の姿勢が正されることですね。精神的充足はもともとあった。それを忘れたのは作り手である。お客さんが新たに精神的充足を求めるようになったのではない。というところでしょうか。
なんか、嘘くさい話が多くて嫌なんですよね。特にマーケティング界隈や戦略界隈で顕著です。もうちょっとなんとかならないもんかな、と日々お仕事をしています。それでは今日はこのあたりで。次回をお楽しみに。
景気が良くなって、失業率が下がるのはいいのですが、
売り場の接客クオリティがどんどん下がっていくのは見ていてすごいと思います。
もはや売り場の人が敬語すらしゃべらなくなってきていますね。
さて、今日は価値について書いてみます。
何度か労働価値説と主観価値説については書きました。
マルクスはここで失敗して、破綻しています。
労働者の労働時間が価値の源泉であるとすると、
いらんもんを作り続けても価値なのか?という問いに答えられなくなります。
洗濯板を100万枚作ったとして買う人がいなければそれは価値ではない。
それに100万時間かけたとして、全く意味がない。すると、買う人の主観が価値を決めるわけです。
マス商材の場合は、それが国民的なレベルで共通性があるということです。
みんなご飯は食べるので、「味ぽん」は買うとかね。
それを、テレビで見たりすると、欲しくなるとか。
みんなが「味ぽん」を使っているのを見ると、自分も欲しくなっちゃうとかね。
その「欲しい」というのは個別性を持つけれど、ある程度の共通性も持っている。
ある程度の共通性がなければビジネスなんて成り立ちませんよね。
その共通する「欲しい」の大きさが市場の大きさなわけです。
何かがたまたま売れたとすると、誰かがそれを欲しいと思ったのです。
それに共通性があれば、ビジネスになる。
その誰かの後ろに同じ欲しいを持った人が何人いるのか?がいわゆる市場規模の考え方であり、
同じ欲しいに対して、同じ商品を提供できるのか?というところが「ビジネスシステム」「価値の複製」の論点なわけです。
その共通性が大きくなるのならば、企業は大きくなり、そうでなければ大きくならない。
その共通性が途方もなく大きいのがマス商材なわけです。
テレビはみんなが見ていましたが、
みんなが見るものに、みんなが欲しそうなものを流して、みんなが行く売場に置く。
このシステムが出来上がり、ここに乗っかれる会社がナショナルカンパニーになっていく。
また、その共通性が大きくなったとしても、同じことができる企業がたくさん出てくると、自社は大きくなりにくい。競合の問題がある。
誰でもできることでは、なかなかお客さんの支持を得ることを続けられないのは、普通に納得が行く話ではあります。じゃあ、どうするかと言えば、価値を大きくし続けたり、価値提供のコストを競合に比較して小さくしたりといったことをする。相対的低コストとポーターが言う論点です。
みんなが要ると思う何かを供給するコストが下がる。これは社会的には非常にいいことですからね。がんがん相対的に低コストが実現されるのはいいことです。
ただね、人間がやれることには限りがあるので、クオリティを保って低コストというのは、限界がある。ただ、お客さんが価値と思うことはもっとよくして、価値と思っていない部分はコストを削ればいいという、選択の問題がある。これを指摘したのがブルーオーシャン戦略ですよね。
ただ、言うほどうまくはいかないでしょう。お客さんが価値だと思う部分をどう測るかの問題や、無意識的な部分で価値貢献していた部分を削るケースが出てきますからね。
だから、高付加価値と低コストの両立は可能だ!もけっこう眉唾だと思ったほうがいいとは思います。理論上あり得ることは認めますけどね。
あと、最近の流行りとしては、「物質的充足から精神的充足へ」でしょうか。これも言い尽くされてはいると思いますが、よくある間違いだと思うのは、精神的充足を付加するというような考え方です。
普通に考えれば、精神的充足なしにこれまで買っていたというのは嘘くさいですよね。車はシグナリングが指摘される前からステータスシンボルです。何も物質的充足だけを求めて車を買っていたわけではない。
ブランドものの服でもそうです。
だから、より正しいのは、機能的な部分にばかり目が行っていた企業側の姿勢が正されることですね。精神的充足はもともとあった。それを忘れたのは作り手である。お客さんが新たに精神的充足を求めるようになったのではない。というところでしょうか。
なんか、嘘くさい話が多くて嫌なんですよね。特にマーケティング界隈や戦略界隈で顕著です。もうちょっとなんとかならないもんかな、と日々お仕事をしています。それでは今日はこのあたりで。次回をお楽しみに。
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