ブログが放置になって申し訳ありません。久しぶりの更新です。
しかも、メルマガの転載です。マジで書けません。
そしてnoteへの移行を検討しています。fc2のコンテンツは残しつつ、noteへと移行していくイメージです。実施時期はちょっと未定ですが、自社サイトのリニューアルに合わせて実行できればと思っています。
忙しいですが、楽しみにしてくださっている方がいるようなので、頑張って更新していければと思っております。
以下、メールマガジンの転載になります。
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こんにちは。伊藤です。
発行頻度が落ちてしまいまして、申し訳ありません。
いろいろありますが、私は元気です。
体調管理にはいろいろ気を付けていますが、
背中ににきびなどができる問題がしばらくあったのですが、
あかすりでなんとかしていましたが対処療法的でした。
それで、あかすりのおばちゃんに「ニンニクと玉ねぎの皮を食べればできものなんてできないよ」
と言われ、試してみたところ、できなくなりました。
肌の調子がすごくよくなりました。驚きです・・・。こんなもんなんでしょうか。
私はたまたまあっただけかもしれませんが、自分なりの健康維持のやり方を見つけたいものですね。
さて、今日は最近のマンガやアニメから考える現代、みたいなことを書こうと思います。
柔らかすぎますので、こういうのが嫌いな方は申し訳ないです。
割とヒットしたマンガに「終わりのセラフ」があります。
シリーズ累計700万部ですので、それなりのヒットでしょう。
この話は吸血鬼に支配された世界のお話なのですが、
主人公の「優」は孤児院で育ち、少年期に世界の大人がほぼ死亡するという出来事を経験するわけです。
設定としては吸血鬼、鬼、刀、天使、人間の神に近づく実験、みたいな、ありがちな厨二設定です。
ただ、裏にある大きなテーマとして「家族、仲間」といったものがあります。生死がかかる利害やら、過去のつながりやらで仲間がいて、その仲間のために一人一人が頑張るという話なわけです。
この仲間を妙なレベルで大事にし、仲間のため、大切な人間のためなら自分を犠牲にするというのが具体のレイヤのみで描かれます。
見えないものは信じない。信頼できる具体的な仲間のために頑張る。そういう感じでしょうか。
マス・メディアが発達した時代には、ルーマンがいう「第二の現実」が重視されました。世界のどこかで誰かが苦しんでいるんだ!みたいなことが重要視された時代もあるわけです。
ただね、終わりのセラフではルーマンが言う「第一の現実」、自分が体験して見えている現実が重視されます。滅亡した社会でマスメディアなんてないですからね・・・。
この第一の現実と第二の現実の比重みたいなものが変わってきていることは捉えないといけないと思います。具体的に体験できていない「第二の現実」よりも目に見える何かを信じ、そのために生きる感覚が強くなっているということですね。
また、最近大ヒットしている漫画・アニメとして「僕のヒーローアカデミア」があります。こちらは楽に1000万部をオーバーしていまだに完結していませんので、まさに大ヒットです。
これは「個性」という超常の能力をみんなが生まれながらに持っていたとしたら、という物語です。主人公はもともと「無個性」で個性がないとされます。
いわゆる「個性」を生かしてヒーローとして、警察の外注を受けて個性を悪用する犯罪者を取り締まる仕事が人気を集める社会で、彼は落ちこぼれだったのですが、ひょんなことから個性を与えられ、ヒーローになっていくという物語です。
このアナロジーはすごいセンスだと思いました。
この物語では個性とは能力です。いえ、現実の社会でも個性は能力と不可分なのですが、それがビジュアル化され、嫌でも個性とは能力であり実力のベースであるということが分かってしまいます。この作品で育った子供には、そんなことは常識となっているでしょう。
「それぞれの個性があるから能力なんて関係なく素晴らしいんだ」みたいなことを言う教育者な方々がいましたが、この作品はそんな言葉の説得力を完全に奪っていきます。
また、「公共性」についても考えさせられます。パブリックな場での個性使用は固く禁じられています。過度な個性を主張したり、個性を悪用する人間が「犯罪者=ヴィラン」として取り締まられるわけです。
行き過ぎた個性の主張、誤った形での個性の使用は公共性を脅かすということが前提になっているのです。
この作品で育った人たちにとって、「個性=能力のベース」であり、そこに努力が加わって、成長するというイメージは共有されるでしょうね。うすら甘い「素晴らしき個性」みたいな主張がいかに中身がないかということを深く理解しているでしょう。
行動の前提というか理解の共通基盤というか、そういうものになる物語を福島亮大は「神話」と言っています。ハイデガー的にはそれによって「世人」が形成されるのでしょうか。
共通理解のベースは「物語」です。広く共有される物語です。
それを神話と言います。その神話は、古くは口伝の物語でしょうし、戦後は本や新聞でしたでしょうし、テレビが担った時期もありましたし、今はAmazonビデオ等のダウンロードで見るアニメーションでしょうか。
そういう意味で、広く受容される物語が何か?というのを時代・世代を捉えるために抑えておくのは重要ですね。
コンセプトワークに際しても重要なのですが、それはまた別の機会に書いていきましょう。
それでは今日はこのあたりで。次回をお楽しみに。
しかも、メルマガの転載です。マジで書けません。
そしてnoteへの移行を検討しています。fc2のコンテンツは残しつつ、noteへと移行していくイメージです。実施時期はちょっと未定ですが、自社サイトのリニューアルに合わせて実行できればと思っています。
忙しいですが、楽しみにしてくださっている方がいるようなので、頑張って更新していければと思っております。
以下、メールマガジンの転載になります。
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こんにちは。伊藤です。
発行頻度が落ちてしまいまして、申し訳ありません。
いろいろありますが、私は元気です。
体調管理にはいろいろ気を付けていますが、
背中ににきびなどができる問題がしばらくあったのですが、
あかすりでなんとかしていましたが対処療法的でした。
それで、あかすりのおばちゃんに「ニンニクと玉ねぎの皮を食べればできものなんてできないよ」
と言われ、試してみたところ、できなくなりました。
肌の調子がすごくよくなりました。驚きです・・・。こんなもんなんでしょうか。
私はたまたまあっただけかもしれませんが、自分なりの健康維持のやり方を見つけたいものですね。
さて、今日は最近のマンガやアニメから考える現代、みたいなことを書こうと思います。
柔らかすぎますので、こういうのが嫌いな方は申し訳ないです。
割とヒットしたマンガに「終わりのセラフ」があります。
シリーズ累計700万部ですので、それなりのヒットでしょう。
この話は吸血鬼に支配された世界のお話なのですが、
主人公の「優」は孤児院で育ち、少年期に世界の大人がほぼ死亡するという出来事を経験するわけです。
設定としては吸血鬼、鬼、刀、天使、人間の神に近づく実験、みたいな、ありがちな厨二設定です。
ただ、裏にある大きなテーマとして「家族、仲間」といったものがあります。生死がかかる利害やら、過去のつながりやらで仲間がいて、その仲間のために一人一人が頑張るという話なわけです。
この仲間を妙なレベルで大事にし、仲間のため、大切な人間のためなら自分を犠牲にするというのが具体のレイヤのみで描かれます。
見えないものは信じない。信頼できる具体的な仲間のために頑張る。そういう感じでしょうか。
マス・メディアが発達した時代には、ルーマンがいう「第二の現実」が重視されました。世界のどこかで誰かが苦しんでいるんだ!みたいなことが重要視された時代もあるわけです。
ただね、終わりのセラフではルーマンが言う「第一の現実」、自分が体験して見えている現実が重視されます。滅亡した社会でマスメディアなんてないですからね・・・。
この第一の現実と第二の現実の比重みたいなものが変わってきていることは捉えないといけないと思います。具体的に体験できていない「第二の現実」よりも目に見える何かを信じ、そのために生きる感覚が強くなっているということですね。
また、最近大ヒットしている漫画・アニメとして「僕のヒーローアカデミア」があります。こちらは楽に1000万部をオーバーしていまだに完結していませんので、まさに大ヒットです。
これは「個性」という超常の能力をみんなが生まれながらに持っていたとしたら、という物語です。主人公はもともと「無個性」で個性がないとされます。
いわゆる「個性」を生かしてヒーローとして、警察の外注を受けて個性を悪用する犯罪者を取り締まる仕事が人気を集める社会で、彼は落ちこぼれだったのですが、ひょんなことから個性を与えられ、ヒーローになっていくという物語です。
このアナロジーはすごいセンスだと思いました。
この物語では個性とは能力です。いえ、現実の社会でも個性は能力と不可分なのですが、それがビジュアル化され、嫌でも個性とは能力であり実力のベースであるということが分かってしまいます。この作品で育った子供には、そんなことは常識となっているでしょう。
「それぞれの個性があるから能力なんて関係なく素晴らしいんだ」みたいなことを言う教育者な方々がいましたが、この作品はそんな言葉の説得力を完全に奪っていきます。
また、「公共性」についても考えさせられます。パブリックな場での個性使用は固く禁じられています。過度な個性を主張したり、個性を悪用する人間が「犯罪者=ヴィラン」として取り締まられるわけです。
行き過ぎた個性の主張、誤った形での個性の使用は公共性を脅かすということが前提になっているのです。
この作品で育った人たちにとって、「個性=能力のベース」であり、そこに努力が加わって、成長するというイメージは共有されるでしょうね。うすら甘い「素晴らしき個性」みたいな主張がいかに中身がないかということを深く理解しているでしょう。
行動の前提というか理解の共通基盤というか、そういうものになる物語を福島亮大は「神話」と言っています。ハイデガー的にはそれによって「世人」が形成されるのでしょうか。
共通理解のベースは「物語」です。広く共有される物語です。
それを神話と言います。その神話は、古くは口伝の物語でしょうし、戦後は本や新聞でしたでしょうし、テレビが担った時期もありましたし、今はAmazonビデオ等のダウンロードで見るアニメーションでしょうか。
そういう意味で、広く受容される物語が何か?というのを時代・世代を捉えるために抑えておくのは重要ですね。
コンセプトワークに際しても重要なのですが、それはまた別の機会に書いていきましょう。
それでは今日はこのあたりで。次回をお楽しみに。
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