落合陽一さんの「デジタルネイチャー」という本が売れているということで、パラパラと読みました。↓です。


大雑把な感想としては、なんというか、近代の超克をこういうトーンというか、趣味でやるんですね、ということでしょうね。
言うまでもなく、モダンの超克はポストモダンによって延々と試みられてきているわけです。ニーチェに始まるかどうかは別として、「モダン」という近代合理主義と言いますか、そういうものが今でもそれなりに信じられています。
この信じられているものが、実は人間の自然な感覚からだいぶずれてるんじゃないの?というのは、ポストモダンの論者も指摘し続けているわけです。
主体/客体の問題については、マッハ/フッサール/ハイデガーを引けばいいでしょうか。現象学はある意味で俯瞰的といいますか、図解化と言いますか、そういうふうに定式化された世界理解への反論だったと思うわけですよね。
心理主義もまた、いわゆる「脳科学」的な知見によってメタメタに批判されているはずなのですが、いまだに人間の心理でセグメンテーションすればいいんだ!とか言い出す頭の悪い自称マーケティング界隈の人々がいます。
メディア論にしても、メディアを人間の拡張装置としてみる考え方は衒学的ではありますがマクルーハン以降は当たり前ですし、接するメディアは人間の認知に影響を与えます。メディア自体がメッセージであるというのは、そういう意味合いで解釈されるべきバズワードでしょう・・・。
当然、リアリティの問題はメディア論を踏まえてルーマンも語っていることです。ただ、ルーマンはモノとモノのコミュニケーションをコミュニケーションとは言っていないところが、この本が言っていることと少しずれるところでしょうか。
ただ、メディアの環境化はポストヒューマンの問題を生み出すことはみんな分かっていることです。当然、液状化する個人、いわゆるフロー的個人についてはバウマンを引くべきでしょう。
世界が同時に流れていく感覚というのも、別に東洋思想を引かなくても、ドゥールーズがシネマで指摘していることですし、国民国家の崩壊というか、人の移動の自由がもたらす変革についてはネグリ・ハートが論じているでしょう。
言語的な思考の制約についても、ルース・ミリカンがリスが餌に飛びつく事例を用いて動物のイメージ思考の可能性について説明してくれていますし、もっと直接的にはウィトゲンシュタインも言語の限界を規定することで、イメージ的な思考の可能性については示唆してくれています。当然、言語の問題は論理の問題であり、最後には倫理の問題となり、「価値観」というものを射程に入れなくてはいけないことについても、ウィトゲンシュタインは分かっているわけです。
この本にわざわざ言われなくてもポストモダンの思想家たちが対峙してきた問題が近代の超克であるわけです。ただ、ほかの近代の超克について書いた本は売れず、この本は売れているわけです。それが大きいでしょうね。
編集者は宇野常寛さんで、彼の特徴が出ているような気がしました。
近代の超克は確かに必要ではあるわけです。でもね、近代が想定した個を確立した人間なんて本当にいたんですか?という問いがあります。答えはノーですよね。ただ、いわゆる「近代」のイメージがあり、制度やら人々の行動がそのイメージを前提に作られてしまう面がある。それによる齟齬はいろいろなところで起きる。
それを解明することで、超克を目指す。このスタンス自体は悪くはないですよね。ただ、このポストモダンをデジタライゼーションで語る試みについて、また同じ問題は発生しうるでしょう。
この本を読んだとしても、「人間の心理でセグメンテーションを行ってマーケティングをすればうまくいくんだ!」みたいなことを言う人は減らないでしょう。
デジタルネイチャーという書籍はその誤解のイメージでいろいろと突き進む面があり、「モダン」のイメージを多少破壊できる面もないとは言いませんが、結局は現状を変えることはできないんだろうなあ、と思うわけです。それだけモダンパラダイムは強烈だと思うわけです。
そして、インターネットでは脊髄反射みたいなことをする人たちがたくさんいて、それっていわゆる「愚民」であって、啓蒙によって超克が試みられてきた人々なわけです。近代、モダンはそういった愚民の超克、ポピュリズムの超克に失敗していることは、最近の国会を見ていても、いわゆる極右政党のヨーロッパでの台頭やら、トランプ大統領を見ても明らかでしょう。
ただね、これに対する超克を、一応、ポストモダニストに数えられるデリダは大学教育で行おうとしました。出力を抑制し、ひたすら入力をすることによって、ある意味で近代的な自立した個人、膨大なストック的知識を背景とした個人を作ろうとした面があるわけです。
これは、編集者の宇野氏が言う「遅いインターネット」、要は脊髄反射しないで、出力、というか反応の前にちょっと考えてみよう、という話とすごく似ているように思うんですよね・・・。それって、ある意味でモダニズムの徹底のような気もするんですけどね。違うんでしょうか。
大雑把には、今風のポストモダン入門みたいな本と言えばいいんですかね。ポストモダンがデジタライゼーションという切り口で語られているわけです。
ただ、圧倒的にメディア技術が目に見えて進んでおり、メディアアートという形で人間と環境のインタラクションの可能性が探求されているので、具体的に語ることができる面もあることが、現代の書き手の有利なところであり、メディアアートをバックグラウンドにする著者がこういうことを書く意味はあるといったところでしょうか。
ざっくりした感想なので、詳細についてはまた別の機会に書けたら書きますね。こんなことを書いているとクライアントに仕事しろと言われてしまいそうですので。
それでは、次回をお楽しみに。
大雑把な感想としては、なんというか、近代の超克をこういうトーンというか、趣味でやるんですね、ということでしょうね。
言うまでもなく、モダンの超克はポストモダンによって延々と試みられてきているわけです。ニーチェに始まるかどうかは別として、「モダン」という近代合理主義と言いますか、そういうものが今でもそれなりに信じられています。
この信じられているものが、実は人間の自然な感覚からだいぶずれてるんじゃないの?というのは、ポストモダンの論者も指摘し続けているわけです。
主体/客体の問題については、マッハ/フッサール/ハイデガーを引けばいいでしょうか。現象学はある意味で俯瞰的といいますか、図解化と言いますか、そういうふうに定式化された世界理解への反論だったと思うわけですよね。
心理主義もまた、いわゆる「脳科学」的な知見によってメタメタに批判されているはずなのですが、いまだに人間の心理でセグメンテーションすればいいんだ!とか言い出す頭の悪い自称マーケティング界隈の人々がいます。
メディア論にしても、メディアを人間の拡張装置としてみる考え方は衒学的ではありますがマクルーハン以降は当たり前ですし、接するメディアは人間の認知に影響を与えます。メディア自体がメッセージであるというのは、そういう意味合いで解釈されるべきバズワードでしょう・・・。
当然、リアリティの問題はメディア論を踏まえてルーマンも語っていることです。ただ、ルーマンはモノとモノのコミュニケーションをコミュニケーションとは言っていないところが、この本が言っていることと少しずれるところでしょうか。
ただ、メディアの環境化はポストヒューマンの問題を生み出すことはみんな分かっていることです。当然、液状化する個人、いわゆるフロー的個人についてはバウマンを引くべきでしょう。
世界が同時に流れていく感覚というのも、別に東洋思想を引かなくても、ドゥールーズがシネマで指摘していることですし、国民国家の崩壊というか、人の移動の自由がもたらす変革についてはネグリ・ハートが論じているでしょう。
言語的な思考の制約についても、ルース・ミリカンがリスが餌に飛びつく事例を用いて動物のイメージ思考の可能性について説明してくれていますし、もっと直接的にはウィトゲンシュタインも言語の限界を規定することで、イメージ的な思考の可能性については示唆してくれています。当然、言語の問題は論理の問題であり、最後には倫理の問題となり、「価値観」というものを射程に入れなくてはいけないことについても、ウィトゲンシュタインは分かっているわけです。
この本にわざわざ言われなくてもポストモダンの思想家たちが対峙してきた問題が近代の超克であるわけです。ただ、ほかの近代の超克について書いた本は売れず、この本は売れているわけです。それが大きいでしょうね。
編集者は宇野常寛さんで、彼の特徴が出ているような気がしました。
近代の超克は確かに必要ではあるわけです。でもね、近代が想定した個を確立した人間なんて本当にいたんですか?という問いがあります。答えはノーですよね。ただ、いわゆる「近代」のイメージがあり、制度やら人々の行動がそのイメージを前提に作られてしまう面がある。それによる齟齬はいろいろなところで起きる。
それを解明することで、超克を目指す。このスタンス自体は悪くはないですよね。ただ、このポストモダンをデジタライゼーションで語る試みについて、また同じ問題は発生しうるでしょう。
この本を読んだとしても、「人間の心理でセグメンテーションを行ってマーケティングをすればうまくいくんだ!」みたいなことを言う人は減らないでしょう。
デジタルネイチャーという書籍はその誤解のイメージでいろいろと突き進む面があり、「モダン」のイメージを多少破壊できる面もないとは言いませんが、結局は現状を変えることはできないんだろうなあ、と思うわけです。それだけモダンパラダイムは強烈だと思うわけです。
そして、インターネットでは脊髄反射みたいなことをする人たちがたくさんいて、それっていわゆる「愚民」であって、啓蒙によって超克が試みられてきた人々なわけです。近代、モダンはそういった愚民の超克、ポピュリズムの超克に失敗していることは、最近の国会を見ていても、いわゆる極右政党のヨーロッパでの台頭やら、トランプ大統領を見ても明らかでしょう。
ただね、これに対する超克を、一応、ポストモダニストに数えられるデリダは大学教育で行おうとしました。出力を抑制し、ひたすら入力をすることによって、ある意味で近代的な自立した個人、膨大なストック的知識を背景とした個人を作ろうとした面があるわけです。
これは、編集者の宇野氏が言う「遅いインターネット」、要は脊髄反射しないで、出力、というか反応の前にちょっと考えてみよう、という話とすごく似ているように思うんですよね・・・。それって、ある意味でモダニズムの徹底のような気もするんですけどね。違うんでしょうか。
大雑把には、今風のポストモダン入門みたいな本と言えばいいんですかね。ポストモダンがデジタライゼーションという切り口で語られているわけです。
ただ、圧倒的にメディア技術が目に見えて進んでおり、メディアアートという形で人間と環境のインタラクションの可能性が探求されているので、具体的に語ることができる面もあることが、現代の書き手の有利なところであり、メディアアートをバックグラウンドにする著者がこういうことを書く意味はあるといったところでしょうか。
ざっくりした感想なので、詳細についてはまた別の機会に書けたら書きますね。こんなことを書いているとクライアントに仕事しろと言われてしまいそうですので。
それでは、次回をお楽しみに。
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