FC2ブログ

**********************************************************************
メールマガジン「インサイト100」
週に1回配信中。
登録は⇒http://www.taii.jp/
**********************************************************************
 こんにちは。今日は、日本国債は日本人が買っているから大丈夫!というお話についてです。中学生にもわかるようにシンプルに書いてみましょう。

 えーっと。それでね、何が大丈夫で、何が大丈夫ではないかはよくわかりませんが、まあ、どうなるか?を考えてみましょう。

 国債は国がお金を借りているわけですよね。国債を買ってくれた人から借りている。買っているのはだれか?だいたいメガバンクですよね。

 国がメガバンクから1000兆円借りました。もしも、あなたがメガバンクだったら、メガバンクは1000兆円返してもらわないといやですよね。というか、返してもらえなければ、生きていけないぐらいのダメージを受けそうな気がしますよね。

 まあ、全体の資産構成によりますけどね・・・。1000兆円は、どんな主体にとっても、大きそうな気がします。

 それでね、これが国が返せないとどうなるかわかりますよね。メガバンクがやばいことになる。

 メガバンクがやばくなっても別にいいよ、と思いますか?

 メガバンクは何を原資に国債を買っていると思いますか?メガバンクも誰かからお金を借りているんです。誰でしょう?

 そう、預金者です。日本には預金が1000兆円あるから大丈夫だ!というのは、その預金をしている人の貸しているお金が、国に踏み倒されるから、大丈夫だと言っているのでしょうか?

 まあ、国債を買っている国民と、メガバンクに預金している国民が、国のためだったら、喜んで自分の預金なんて差し上げますよ!と言うのであれば、いいでしょう。私は嫌ですけどね・・・。

 それに気づくと、みんな、日本のメガバンクじゃなくて、シティーバンクとかに口座を持ったりするわけですよね。日本国債は日本人が買っているから、外資は買ってないから外資に預金すれば大丈夫!という話ですね・・・。

 もしも、みんながそう思ってそういう行動に出ると、メガバンクが預金者からお金が借りられなくなって、国債を買い続けられなくなりますけど・・・。大丈夫なんでしょうか?

 いや、日銀がカネを刷ればいいんだ!!!と思います?

 日銀が国債を無制限に買えば、いくらでも国債は発行できるぞ!と。

 まあ、そりゃそうなのですが。

 じゃあね、日銀が今の通貨が2倍になるぐらい、お金を刷って国債を買ったとしましょう。よかった。日銀が助けてくれた、と。

 そうするとね、もしも、モノ、サービスの価値の総量が変わらなかったとして、お金だけ2倍になったら、お金の価値は1/2になりますよね。

 たとえば、私が100万円預金していました。ビッグマックが100円キャンペーンだったとして、これまで1万個買えました。

 でもね、お金の量が二倍になると、ビッグマックが200円になっちゃうのですね。そうすると、5000個しか買えない。

 えー、現金で預金すると、貧しくなるのー、と。そうです。貧しくなるはずです。

 でも、上記の仮定が変われば、ひょっとしたら、ひょっとするのです。何が変わればいいのか?

 書いてありますよね。「もしも、モノ、サービスの価値の総量が変わらなかったとして」と。

 この総量が同時に2倍になれば、ビッグマックは相変わらず1万個買えますね!よかった、と。ただ、日本はここしばらく経済成長していないので、どうなんでしょうね。

 それがデフレのせいだ!ということだけなら、インフレにすれば、ひょっとしたら、ひょっとして経済成長が起こるかもしれない。

 それは、わかりません。

 でもね、経済成長を必ず持続的に起こせる施策ってあるかっていうと、私はないと思いますけど。

 国が公共事業をやればいいんだ!という考えもあります。いわゆる財政出動というやつです。

 公共事業をやると、国が無理やりモノ、サービスの需要を作り出すわけで、モノ、サービスの価値の総量は上がります。でも、その原資は、国債です。

 あれ、初めに戻りますね。国債で資金を調達して需要を作るためのお金にするのです。そうすると、少し複雑な話になりますね。

 国がカネを借りて、国が需要を作れば、経済成長が起きて、たとえ日銀が国債を引き受けたとしても、お金の総量が増えたとしても、インフレにはならないし、国民は預金を国に差し出さなくていい、となるのか?というところです。

 そうすると、借金の増加速度、お金の増加速度と経済成長速度がどれがどれぐらい速ければ持続可能なのか?が問題になってきますよね・・・。誰も知らない世界に入っていきます。

 大失敗すれば、みんなの預金がなくなって、借金もなくなって・・・、ですよね。

 え?それだけでいいの?じゃあ、やれば?という声も聞こえてきそうです。が、これだけではないです。円の価値の問題があります。円という通貨が、借金の埋め合わせでバンバン刷られるとどうなるか?といいますと、円の価値が減ります。

 他の通貨に対する相対的な価値が下落します。そうするとね、原料、特に石油などの資源や、輸入に頼っている食べ物が高くつくことになる。当然、それを上回るだけ日本のモノが海外に売れればいいわけですけど、どうなるでしょう・・・。わかりませんが、最悪のシナリオとしては、石油、食糧が上がって、電気、食い物の値段が上がります。

 そうすると、預金の価値も減っているので、今の豊かな暮らしは持続できないでしょうね・・・。とんでもなく貧しくなる。

 それはそれでいいんじゃない?というのなら、いいですけど・・・。でも、こうなったら、安全保障とかの持続可能性もなくなるような気がします。現代に戦争が起こるか?というと昔ほどのリスクはないのかもしれませんけど、領土をめぐる小競り合いなどには勝てなさそうな気がしますが・・・。

 これ、リスクは相当あるよなあ、とういうことなわけですよね・・・。ただ、ということはリターンもある可能性はあるということです。

 もしも、財政出動と同時に、規制緩和などをやって、新しい産業が力強く起こって、輸出企業が奇跡の回復などを遂げて、借金問題は、GDPの成長が起こるし、増税もするからGDPに対する割合としてはたいしたことがなくなって、今より更に豊かになって、万事OK!となる可能性がないわけではない。

 「危険な賭け」というのは、こういうことですよね・・・。リターンがないとは言わないし、リスクがないとは言えない。まあ、そういうもんです。

 どっちにふれるのか?それは誰にもわかりません。必ずどっちになるんだ!といえるやつは嘘つきだと思います。

 私はどっちかって?痛みを伴って、誰かがとばっちりを受けるけど、なんとかなるかもね、と思っています。私はそういう未来にベットしているというか、そういうことです。私は今の社会、世界は素晴らしいと思いますよ。みんなエアコンがあって、床暖房まであって、ウォシュレットまである。すごい、素晴らしき世界、と思っています。

 それでは、今日はこのあたりで。次回をお楽しみに。
2013.01.24(10:59)|ソーシャルコメント(0)トラックバック(0)TOP↑
おはようございます。伊藤です。
東京はまた雪の模様ですね。
この前よりはいいみたいですが・・・。

さて、今日は教育と社会のお話です。

「スクールカースト」というやつを
聞いたことがあるでしょうか?

今の学校の教室にはスクールカーストがある、
と指摘している教育学者、社会学者がいます。というかけっこう多数です。

それは何か?とシンプルに言えば
コミュニケーション能力によるカーストです。

そして、それは家庭教育レベルを如実に反映する
カーストです。しかも、抜けられない。カーストチェンジはない・・・。
輪廻転生しても繰り返すと思えるほどに恐ろしい圧力を持っています。

現在のライトノベルって、『バトルロワイヤル』以降、
クラスメイト同士で殺しあったりする展開が多いようです。
いわゆる教室内サバイバル的なお話です。

それでね、40代以上の人にはそれはピンと来ないのでは
ないか?と思うわけです。

40代以上の人にとって、クラスは画一的同調圧力の強い場で、
そこから外れることは問題な場であったのでしょう。

そこでは、全員が戦いあうという発想よりは、
教室が遭難したら、みんなで協力して困難に立ち向かう
ストーリーになるはずです。当然、時に離脱する子供もいるでしょうけど。

ただ、現在のクラスは、カースト維持圧力の強い場であり、
カースト内での同調圧力と、カースト間の身分固定化圧力が同時にかかる
複雑な場です。

するとね、教室が遭難したら、カースト間で戦いになり、カースト内で協力か裏切りか?
になるわけです。

すると、クラス内バトルロワイヤルがあり得るわけです。

これね、いつがきっかけか?といえば80年代の悪名高い臨教審から説明するのが
常套手段ですよね。

いわゆる個性の教育の開始です。

個性の教育の開始から、生涯学習やら、学習主体としての子供やら、
そういう概念が入ってきて、子供は個性をベースにみんなで仲良くはしなくなった・・・。
モロに出身階層、家庭の暮らし向きが似た連中でグループを作るようになった。
当初はそれがグループだった。

それが、どうも現在では身分として固定化され、カースト化したようなのです。

それでね、なぜ、コミュニケーション能力をベースとしたカーストが生じるのか?
コミュニケーション能力とはなんなのか?というところが疑問として残ると思います。

教員の間でも有名ですが、
かわいい女の子のコミュニケーション能力は高い。なぜか?
みんながよってきて、コミュニケーション機会に恵まれるからです。

でね、今時は子供服のブランドがこれでもか!とありますよね。
着ているものや、いろいろなイベントへの参加機会は、もろに親の収入レベルに
比例します。そういう子供がちやほやされる・・・。

でね、もしも、学校空間が個性の教育でなければ、そういう格差があったとして、
別にまったく関係がないのです。普通に授業やるだけですから。

でも、個性の教育と称して、学びあいの授業とかをやるとどうなるか?

当然、そういった家庭の収入レベルのアドバンテージが強く出てきますよね・・・。
そういう時間が長くなればなるほど、カースト化の傾向が強く出るというのはわかる話では
あります。

以前は、
家庭教育、地域教育が一つの軸としてあり、それは格差固定的であり、
学校教育が、人類の叡智を教えるための積み上げの場としてあり、それは格差とは関係ない
学問の元での平等の名のもとに行われていた。

でも、今は違う。コミュニケーション能力を磨くと称する学びあい教育は、
格差固定的、拡大的にしかありようがないですよね・・・。

しかし、現在では、
家庭教育、地域教育すら崩壊している。
かつ、学校教育すら崩壊している。

塾による受験ノウハウの蓄積で、言語と他のモーダルチャネルを介して得た表象の
結びつきの強化が行われない。言語での学習が進まない状況にある。

この中でどうすればいいのか?
ということで、私は大人をみんなで遊ばせる教育があるのではないか?
という仮説を提示しているわけです。

単純な遊びでは格差は出ません。
かごめかごめ、だるまさんが転んだをやって、コミュニケーション量の差が出るか?
出ませんよ。

おしくらまんじゅうはみんなが楽しいですよね。
まあ、女子もいたら少しだけセクハラ注意ですけど・・・。

そういう情報のインタラクション量が、おしなべて平等で、みんなが楽しくて、
その場のリアリティーが強い遊びをやれば、発達不全に陥っている部分の能力も
発達を始めるのではないか?と考えています。これはリハビリテーションからの
アナロジーですけどね。

ハイパーメリトクラシーをやるなら、
みんなで遊んだほうがいいでしょ?と。

新人研修の予算が降りる時期ですね。
ぜひ、遊び合宿に予算くださいね(笑)。

それでは、次回をお楽しみに。
2013.02.06(12:26)|ソーシャルコメント(0)トラックバック(0)TOP↑
こんばんは。伊藤です。
今日は本当に寒かったですね・・・。

さて、今日は強者と弱者の対立のお話です。

有名なニーチェのルサンチマン概念を知っていますか?

ニーチェは、グード=良いとは、
元々、強いという意味であった、と。
そして、シュレヒト=悪いは、元々は弱いという意味であった、と。

それが、「弱きことは幸いかな」というキリスト教によって、
「弱い=良い」という、価値の倒錯が起こった。

これね、これまでは系譜学の方法論とか、
ルサンチマンという事象だけが注目されてきたように
思いますけど、これを『強者と弱者の対立』として見ると、どうなるのか?
そのアナロジーで現代を捉えるとどうなるのか?
というところを少し考えてみましょう。

ニーチェはこの価値の倒錯を指摘することで、
強者を目指すべきだ、という主張をしています。

人は人を超えようとする、超人たるべし、という主張をしているわけです。

確かに、弱者の支配が行き過ぎると、
強くあろうと思うモチベーションが減退します。

すると、社会を変革する力、成長させる力のようなものが失われていく面がある。
だから、行き過ぎた弱者の支配はよろしくない。

でもね、それに対して、強者が強ければいいんだ!というふうになると、
弱者の誇りがどんどん失われる社会となってしまう。

弱者がすがることができる物語がないと、結局は、弱者が社会から零れ落ちていく。
それでは、社会が立ち行かなくなる。

私が思うのは、弱者と強者はそれなりの緊張関係を持ちながらも、
共存していくことが望ましいと思うわけです。

それでね、ここまでだとよくわからないと思うので、
最近の日本について少し考えてみましょう。

最近は、いわゆる格差社会と言われて、自殺者も多いといった状況です。
つまり、弱者が少し劣勢になってきている社会ではないかな?と。

でね、私が着目するのは、脱原発からネトウヨから、カルトまで、近年のよくわからない
小規模コミュニティー運動についてです。

これね、弱者が物語を求めているのではないかな?というふうに見えたりするのです。

これまでも書きましたが、いわゆる最近の教育は格差固定的です。
家庭教育、地域教育のレベルを直接的に反映するのが、いわゆるハイパーメリトクラシー教育です。
コミュニケーション能力などは、どうしても家庭教育レベルを反映し、それが公教育の場で行われるとすると、それは格差を拡大する要素を持ちます。

そして、学校の教室ではスクールカーストが固定化される。
コミュニケーション能力上位の人間が、上位者として振る舞い、恋愛などを謳歌し、
下位者はコミュ障として扱われる。そこに教師までが加担する。

下位者の資産額は非常に小さいことが多く、
上位者の資産額は大きいことが多いわけです。

東大に入る人の資産がでかくてでかくて、というのは
有名なお話ですね。

素朴な話としては、上位者が下位者に優しくあることは、
みんながうまくいくには大事です。

そのための教えとしては、ノブレスオブリージなどの概念があるわけです。

ただ、それは余裕があったら助けましょうが適切なのか、
それとも、弱者は救うべき!が適切なのか、たまに議論を呼びます。

でね、私の感覚では、その時の、強者と弱者の対立においてどちらが優位なのか?
によると思うのです。

弱者が優位ならば、強者は肩身が狭い雰囲気が形成されているはずなので、
強者は余裕があったら、弱者を助ければいいよ、でいいはずです。

強者が優位ならば、弱者の誇りが強く失われているはずなので、
強者は弱者を救うべき、であるべきです。

一億総中流の物語は、弱者を救う物語であったのではないでしょうか?
そして、ある意味で弱者に優しい世界が作られてきた。

その社会が行き詰まり始めた。00年代ぐらいでしょうか。

そうするとね、少しは自己責任論が強調されてもよかったと思います。
小泉改革はその気概を反映していたと思います。

でも、今、10年代に入って、弱者が転げ落ちていっているように見えます。
どの程度まで行けば行き過ぎなのか?はちょっと検証がいると思うんですけど。
強者は、この世界において、強きことを謳歌しているように見えます。

これに対する救いの物語は何だろう?と日本社会を見ると、
先にあげた、脱原発から、ネトウヨまで、いろいろな物語があるように見えます。
これが、全然大きくはなっていないところから見ると、まだまだ弱者への救いのニーズは
小さいかもしれません。

でもね、これが大きくなってきて、社会不安に近いところまで来ると、
新たな強い物語がまた必要なのではないかな?と。

ニーチェの永遠回帰と超人の物語は、強者のためのものだったと思います。
もうしばらくして、格差がもっと拡大して、多くの人が坂道を転げ落ちた時に、
弱者に向けた物語が本当に必要になり、それが出てくるのかもしれません。

ひょっとしたら、アーリア人は素晴らしい!と言いつつ、劣等民族を攻撃する物語かもしれませんし、
ひょっとしたら、弱きことは幸いかな、という物語かもしれませんし、
ひょっとしたら、所得が倍増するという物語かもしれません。

今は、強者が人生を謳歌しているように見えます。

しばらくすれば、強者が撃ち落される物語が出てくるのでは?
というお話ですね。心配しなくても、経済混乱が起これば、
今はプチリッチな資産数億円の人たちはみんな没落するんですけどね・・・。

その時、弱者の怨念はどこに行くんでしょうね・・・。
それを浄化する物語も必要ではないかな、と思いますけど。

それでは今日はこのあたりで。
次回をお楽しみに。
2013.02.16(08:49)|ソーシャルコメント(0)トラックバック(0)TOP↑
 今日は久々に経営のことを書きます。

 今の日本は成熟市場です。成熟市場で有効と言われる手法は2つあります。ビジョン策定とCRMです。

 PPM的に言えば、成熟市場では顧客の獲得コストが上がりますが、それは逆にスイッチングが起こりにくくなっているということです。この時点で起こる顧客の離反はすなわち、その商品の需要の終わりを意味します。

 日本で終わっちゃった家電は新興国に出て行きつつ、日本では高級化をする必要がありますが、たいていの日本メーカーは、新興国でマスを相手にする方策を取らず、日本の現在の感覚で新興国を捉えて失敗したように見えます。グローバルニッチの集合体というコンセプト自体がそういうものに見えます。

 日本では、家電のメーカーも、ビジョン策定とCRMの方向性に向かうべきだったと思います。新興国ではそんなことはどうでもいいから、とにかく最低限の機能のモノを売ればよかったのだと思います。

 このあたりを車と混同した家電メーカーは多かったのではないか?と思っています。車はシグナリング効果を大きく発揮するものですが、家電はそういう要素があったとして、1つあたりから取れるマージンが小さすぎて、みあいません。シグナリングにカネを払うのか、機能にカネを払うのか、ちゃんと考えるべきだったと思います。

 日本では、家電もシグナリング効果を発揮すると思いますが、それは超成熟市場だからではなかろうか、と。

 中小企業の方がたくましく、ビジョン策定のような物語を使った手法を実践してきたように思います。しいたけですら、「しいたけ侍」みたいなものが出てきていますからね。単純に儲けのためにやっていないというメッセージを出すことが、結果的に儲けにつながるという割り切りをしっかり持てたところはごく少数だったように思います。

 家電の場合、機能の実現の仕方にも物語をもつべきではなかろうか、と。ダイソンはそんなに真面目に見ていませんが、あれも、ビジョン策定の亜種のように見ることができるように思います。

 成熟期において、次の時代に向かうケースにおいては、ある程度、独裁的な要素が必要なケースがあると思います。つまり強いやつが力を発揮してもらわないと困る。すると、大多数の人間は弱いが、そこに頼ることになります。でも、それは弱者にとってはしんどい時代だと思います。

 そうすると、やはりマス商材でも弱者へのメッセージが受容されやすくなるように思います。儲けのためじゃなく社会のためなんだ、というメッセージは前に向かう集団にとって免罪符の役割を果たすように思います。

 さすがに、缶コーヒーが語るような「上級」までチープになってはいけないと思いますが、もう少し洗練された物語が、家電あたりのマス商材には必要だし、企業経営という視点では、企業のビジョンとして必要じゃないかな、と。

 例えばね、NPOの職員が月給13万円で社会の役に立っているんだ!をやりがいにしていて、理事はいい暮らしをしている話は、社会システムから見れば、まっとうな視点から見れば社会悪ですが、それを成立させるロジックには、成熟期特有の、日本特有の興味深いものがあるように思います。

 それでは今日はこのあたりで。次回をお楽しみに。


 わかりやすく書くと怒られそうなことを書いているので、分かる人には分かるように書いていますね。ごめんなさい。

 
2013.04.02(09:25)|ソーシャルコメント(1)トラックバック(0)TOP↑
さて、今日は最近ブログのほうで書いている話をベースに
更に話を進めてみます。

企業というのは権力を行使する仕組みであること。

日本企業はコミュニティで、米国企業はカンパニーであること。

日本企業はコミュニティに人生を捧げる度合いの大きさで給与の多寡が決まること。

米国企業は機能集団で、考える部分と実行が分離されていて、考えるほうが給与が高いこと、などを書いてきました。

それでね、今後の日本企業を考えた場合に、現行の延長で行くのか、それとも米国型とも言えるような、独裁型企業が成長して行き、それがスタンダードになるのか、という分岐点にあるように思います。

最近、冷凍食品に農薬混入の事件がありました。

日本企業が機能集団で、人が流動的であれば、人を全く信じないシステムが組まれていることでしょう。工場に入る時に身体検査するとかね。

実際、機能集団的な中小企業で、そうやっている企業を見たことがあります。私はドン引きでしたが、合理的ではあります。短期の関係では誰かが悪さすることを防止することはできませんので。

ただ、現状のコミュニティの仲間ならば、徹底した持ち物検査などはしないのですね。そして、転職市場がほぼ成立していないので、人が1か所に縛り付けられる。従業員側も一か所に縛り付けられることを望む。それを社会は信用と呼ぶ。社会の構成員に長期的関係を強要すれば悪いことはできない。

人が流動化していないのに、コミュニティの末端の人々だけが有期雇用という名目で高いリスクを負っている。そのリターンはない。超低賃金。・・・。

という極めて不健全な状態になっています。

だから、こういうことが起こっていまう、とも考えられるでしょう。

ただ、コミュニティから機能集団への転換は集団が連続性を持っている以上は進みません。JALのように潰れた会社を再生してしまうと、いつまでたっても自然淘汰が進みません。

ユニクロやソフトバンクが出てきて、業績を上げることは、全体のシステムから見れば好ましいと思います。

資本主義とは、資本を背景とした権力差を企業内に発生させることで、人が平等に暮らしながら、社会の厚生を押し上げるという、二律背反を成し遂げるシステムと言えるでしょう。

日本人は資本主義システムの上に、独自のコミュニティ的システムを築き上げ、コミュニティにおけるコミュニケーション密度の濃さによって、ものづくりのケイパビリティを高めてきました。

ただ、それも競争優位になるケースが減少してきたと思います。おそらく、デジタル技術では勝てない。現在、ハイブリッドでは競争優位を持っている自動車でも、電気自動車に完全移行したら、厳しいでしょう。

日本企業は機能集団とコミュニティのつぎはぎのような組織がいろいろと試されている段階にあるように見えます。

潰れかかったり、完全につぶれたりすれば、変革プロジェクトもやりやすいんですけどね。

ただ、この時に、コミュニティの利得と、機能集団の利得をいいとこどりしようとして、うまくいかないケースが出てくるでしょう。今回の農薬混入事件はそういった事態に気づくきっかけになったようにも思います。

こういったことに気づかずに、成果主義といったことを喧伝しても、日本企業での導入はうまくいかない。それを成果主義の終わりだとか、日本はその先を行っているんだ、とか怪しげな主張をする人たちがいましたが、違いますよね。

そもそも、慣習が違うんです。日本は欧米型資本主義とは違ったシステムが、法律だけやや欧米型資本主義に寄せられつつ、動いている。これは非常に脆弱なシステムです。

ただ、地域共同体も崩壊しはじめ、人材の質が変わりつつあり、教育も機能集団のほうへ寄ってきていると考えると、そろそろ企業がコミュニティからカンパニーへ、機能集団へと本来の形に変化する時期なのかもしれません。

それでは今日はこのあたりで。
次回をお楽しみに。
2014.02.04(10:16)|ソーシャルコメント(0)トラックバック(0)TOP↑
Twitter
メールマガジン登録
メールマガジン「インサイト100」週に1回配信中。登録は⇒http://taii.jp/の登録窓から
プロフィール
推薦図書
経営理念
弊社のコンサルティングのポリシーです。

・過去に人類が考えてきたこと(Thought)を蓄積し、そこから鋭い洞察(Insight)を生み出し、その洞察がまた、Thoughtの一部になっていくプロセスを回していくこと。そのプロセスが社会のナレッジ量を増加させ、全ての価値を生み出すことを認識すること

・先人の知恵に対する敬意を払い、学び続けること。ナレッジの自己への入力量が自身の考える能力を向上させ、社会のナレッジ量を増加させることを知ること

・社会のビジネスナレッジの偏在を正すことを目指すこと。そのために社会の構成員であるクライアントに対してビジネスナレッジを提供すること

・ビジネスナレッジの偏在を利用する悪貨たる企業を駆逐する良貨たらんとすること。そのために偏在を利用する企業以上のマーケティング力を持つこと。そして、提供したナレッジに見合った対価をクライアントから頂き収益を上げ、成長していくこと

・社会に対する志を持つ企業、個人をクライアントとすること。例え儲かるとしても、志を持たない企業、個人をクライアントとしないこと

・クライアントの成長を望むこと。具体的な解の提示よりも、その解を出すプロセスをシェアすることにより、クライアント自身がプロセスを組みなおし、異なった解を出す力を増加させることに重きを置くこと

・抽象的な理論のレイヤから、クライアントサイドの具体へと寄っていくこと。ただし、その過程でクライアントにも具体のレイヤから抽象のレイヤに寄ってもらうこと。その上で、中間のレイヤでクライアントと共に新しいナレッジを生み出していくこと
カテゴリー
月別アーカイブ
RSSフィード
ブロとも申請フォーム